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【映画感想】シン・エヴァンゲリオン劇場版:||

1995年のテレビ放送から25年、前作の『Q』から9年。社会現象から日本アニメ界の救世主、そして、同時に(観た人にとっての)呪縛とまでなった『エヴァンゲリオン』シリーズが(コロナウィルス感染拡大により2度の延期の末)、いよいよ2021年3月8日公開の最新作をもって完結となりました。25年前にテレビ版を観てから劇場公開される毎に同じ熱量で魅了され続けて来た作品の最終回。ちょっと、まだ(この25年間で)何を見せられたのかよく分かってませんが、とりあえず。『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』(とそれに伴う25年)の感想です(あ、もちろん、「面白かった」も「すっきりした」もネタバレになる今回の『シンエヴァ』ですから、ネタバレ全開のつもりでお読み下さい。)。 

まずは、監督お疲れ様でした。壮大な繰り返しの物語にケリをつけてくれてありがとうございます。これ以上ないんじゃないかってくらい完璧に終わっていて、放ったらかしにされていたいくつもの謎やキャラクターたちに次々と決着がつけられて行くのも気持ち良かったんですが、さて、感想を書いてみようと思ったら、うん?なんかモヤモヤする。なんで面白かったのか考えれば考える程(概ね面白かったんですが少しだけ)腑に落ちないところがあるという気持ちに囚われるんです。この腑に落ちなさとは何なのか、それを考えることが『エヴァ』とは何だったのかを考えることになるのではということで、モヤモヤした気持ちのまま書いていこうと思います。

えー、そもそも『エヴァンゲリオン』というのがどういう話なのかというと、14歳の少年碇シンジくんが、大人の事情に振り回されながら思春期特有のメンヘラを発揮させ、それでもなんとか思春期の終わりへとたどり着くという話なんですよ。簡単に言えば(それをキリスト教をベースにした人類誕生の話や多元宇宙のSFにしてるところが凄いんですが。)。で、最初にテレビアニメ版26話というのがあって、基本的にはこのテレビ版がベースになってるんですけど、このテレビ版の最終2話(25話と26話)というのがいわくつきの回なんですね。それまでもの凄い吸引力で"使徒"と人類の戦いを描いて来たストーリーが突然シンジくんの精神世界に入ったまま終わってしまうんです(いや、正しく言えば、精神世界に入って行って、最後、現実の世界に戻って来て終わっているんですが、その現実の部分がみんなで輪になって、思春期を脱したシンジくんに「おめでとう」と言うだけという。最後に来て急に放り出されたみたいな終わり方だったんです。)。で、それではあまりにもということで、その最終2話を精神世界に逃げずにちゃんと物語を閉じさせるということで作られたのが旧劇場版なんですね。なんですけど、この旧劇場版はテレビ版とは完全に逆のベクトルの終わり方をしてるんですよ。何が違うのかということをもの凄く雑に説明すると、テレビ版では「おめでとう」なんですけど、旧劇場版では「気持ち悪い」なんです。

えーと、話がややこしくなってきたので、もうちょっと『エヴァンゲリオン』というのがどういう話なのかっていうのを説明しますね。『エヴァ』世界では、"使徒"という生命体がいて、それが不定期に地球(主に地下にリリスが磔にされている第3新東京市=箱根)にやって来るんですが、その"使徒"との戦いの日々の記録というのがストーリーの軸になっているんです(なんでそんなことになっているのかはこちらの方の考察をお読み下さい。『エヴァ』世界の詳細が明快に記されていてとても参考になりました。)。で、その"使徒"との闘いを仕切っているのが、シンジの父親の碇ゲンドウという人なんですけど、そのゲンドウが別にやろうとしている"人類補完計画"というのがあって、それは他人同士の境界をなくして、人類をひとつの単体=完全体にしようとすることなんです。で、まぁ、ゲンドウの真の思惑は違うところにあるんですけど、ゲンドウが仕切る"ネルフ"と、その裏組織みたない"ゼーレ"というのはそれをやろうとしてたわけです。ここでまた、なぜ、そんなことをって話なんですが、じつは人間も"使徒"のひとつなんですね。ただ、人間は複数に分かれてしまっている不完全体なんです。それを完全体とすることで"使徒"の頂点に立たせようとしてるんですけど。つまりそれは、神の様な存在になるということで。それを達成する為に、トリガーとして必要な[エヴァ(智と生命の源のコピー)+シンジ(そのコピーに入れる魂となる存在)+槍(人と人を区別する心の壁、ATフィールドを破る為の武器)]を使って実行しようとするんですけど、それを当のシンジから拒否=他人の存在を認めて不完全体でいることを望まれるって話なんです。で、テレビ版では、この"人類補完計画"を拒否して他人の存在を認めた=他人のいる世界を受け入れた(つまり、思春期脱出)ということで大人の仲間入りをしたシンジくんに対する「おめでとう」で物語が終わったんです。ね、あまりにもですよね。今まで、さんざん"使徒"と戦ったりSFめいたことしてきたのに最後そっち?みたいな。で、このあまりにもをやり直す為に作られたのが旧劇場版なんですけど、それがどうだったかというと、テレビ版の24話までで"使徒"の精神汚染を受けて心身ともにボロボロになっていたアスカが復活し、ゲンドウはレイと融合して"人類補完計画"を進めようとし、それをシンジが拒絶してギリギリのところで人類は補完されずに済んだんですが、残ったのはアスカとシンジのふたりだけ。絶望したシンジがアスカの首を絞めて殺そうとするが出来ずに泣き崩れると、それを見たアスカが「気持ち悪い」。で、「終劇」。つまり、他者の存在を受け入れたシンジがそれを内包する世界の痛みを知ったところで終わるという、「おめでとう」とは真逆でありながら、ある意味生きることの真理をついたラストではあったんです(「世界とは、生きるとは、こういうことだ。」って感じが庵野監督の思想を反映してる様で好きな終わり方でした。)。

で、いよいよ新劇場版なんですが、この(テレビ版のあまりにもをなんとかしようとして作られた)旧劇場版のラストもこれまたあまりにも展開だったので、庵野監督が、今度は誰もがコミット出来る『エヴァンゲリオン』を作るということで始まったのが新劇場版なんです。つまり、庵野監督自身が自分の為だけに作ったテレビ版&旧劇に対して、みんなの為に作ったのが新劇場版なわけです。で、これは『序』、『破』、『Q』ってタイトルからしても、物語を作る時の一般的な三幕構成を歌っているので、きちんとした物語(つまり、ちゃんと終わらせるってことですよね。)を紡ぐぞという気満々なわけです。しかも、今回の『シンエヴァ』を観てみたら、これ、まるっきりテレビ版の語り直しなんですよね。で、僕、『シンエヴァ』を観る前に『序』、『破』、『Q』を続けて観てみたんですけどやっぱり良く出来てるんですよ。物語として。もしかしたら、これ、最初のテレビ版の時にあったプロットなんじゃないかって思うくらいに。それが尺の問題とか制作時間の問題とか監督の精神的な問題とかで出来なかったとかじゃないのかなって。それをもの凄く丁寧に語り直してる感じなんです。ただ、その物語の基本構成から逸脱しちゃってるところがあるわけですよ。ご存知の通り4部作になってるわけなんで。

これ、もともとは『序』、『破』、『Q+?』の3部作で公開されるはずだったんですね。最初からそうインフォメーションされてて。それがいざ公開されたら『+?』が取れて『Q』だけになってたんです。だから、ほんとは三幕構成の三幕目であれば、二幕目で起った試練よりも更に大きな試練が来て、それを解決して終わるところまで行くはずなんですよ。それが更に大きな試練に見舞われたところで終わってるから、宙ぶらりんなままで強制的に終わらされちゃってるから(しかも、そこに行くまでにシンジくんもかなり成長してて、今回の『エヴァ』は違うぞ、自らの意思でレイを助けたぞっていうことになってたとこでのいきなりの14年後で。14年ぶりに目覚めたら「お前のせいで人類の大半死滅したから。」って言われて。人類史上でも類を見ない試練に見舞われてるわけですよ。)。で、そこから今回の『シンエヴァ』まで9年空くんですよ。だから、これ、たぶん、本来の通りに三幕構成で終わるんであれば『シンエヴァ』の部分はあんなに長くはなってないはずなんです。『Q』のあの後につくわけだから。だから、もしかしたらほんとうは、テレビ版の時の様に、あの人類史上類を見ない試練の後に、またシンジくんに自問自答させて適当に思春期離脱させようとしてたんじゃないのかなと思ったんです。ていうか、『シンエヴァ』ってそこを単に引き伸ばしてるだけじゃね?基本的には、シンジくんが周りの人に優しくされて、それに乗っかって成長した風になってるだけじゃね?というのと、加えて、あれだけ不可解で全てを拒絶していた『エヴァ』が何だか物分かりの良いおっさんになってしまったなというのが僕が感じてたモヤモヤの原因だったんです。

あの、じつは、↑ のところまで書いて、それも何か違うなと思って(「完璧な終わらせ方じゃん。」と思った1回目鑑賞、「ん、なんか、これはこれで都合良くね?」と思った2回目鑑賞に続いて)3回目観に行ったんですね。そしたら、なんだか憑き物が取れたみたいにすんなり理解出来たんですよね。いや、なんか、やっぱり『エヴァ』だったなと。えーと、では、何が自分の中で変わったかと言いますと、まず、時間が経ってるということ。実際に『Q』から『シンエヴァ』までは9年掛かってますが(しかも、これ、本当は一本の映画にしようと思ってたわけですから。この9年の間にいろいろ考えも変わってると思うんです。)、映画の中でもシンジが復活するまでは凄い長い時間掛けてるんですよね(いわゆる第3村のパートです。)。1回目と2回目観た時は、シンジいつまで落ち込んでんだよって方に気持ちが行ってたんですが、3回目でようやくここでシンジが何をしてたのかが分かったんです。これ、たぶん、シンジくん理解しようとしてたんですよね。なぜカヲルくんは死んだのか、なぜアスカは怒ってるのか、なぜミサトさんはエヴァに乗るなって言ったのか。で、ここでキーになるのがレイ(のクローン)で、今回のレイは(クローンなので)生まれたばかりの子供の様に無垢で素直な存在なんです。そのレイによってシンジは自分は必要とされていたんだってことを理解するんですよ。つまり、自分の意志で自分の存在を認めたってことですよね。今までの『エヴァ』は、他人の存在を認めることが大人になることだとずっと言ってたんですけど、今回はそこが違ったんです。そこを時間を掛けてゆっくり見せてくれるんです。あと、もうひとつは、シンジくん、今回、劇中で一回も叫ばないんですよ。最早、『エヴァ』の代名詞といってもいいシンジくんの叫びだと思うんですけど。これまでシンジくんが叫んでた時って、目の前でめちゃくちゃショックなことが起きてワケ分かんなくなってるか、無我夢中で我を忘れてる時なんですね。これって、要するに思考停止ですよね。それが『シンエヴァ』では一回もないんです。要するに、ずっとちゃんと考えているんですよ。考えた上で自分の意志でどうするかを決めているんです。父ゲンドウとの対決でロンギヌス(絶望)の槍とカシウス(希望)の槍で戦って、そのどっちでもないヴンダーが作り出したヴィレ(意志)の槍で決着をつけるのにも顕著ですけど。これ、テレビ版と旧劇ではなかった描写なんです。自らの意思で何かをするというのは。しかも、シンジくんだけではなく、登場人物全員がこれをやるんです。自分で考えて自分の意志でどうするか決めるっていうのを。僕が物分かりの良いおっさんになったって感じたのはこの部分だったんですが、それはひとりひとりが自分の意志で動いて来なかった今までの『エヴァ』に対する反発だったんじゃないかと思ったんです。

あの、去年公開された韓国映画で『はちどり』って映画があるんですけど(映画感想でもPODCASTでも取り上げました。)1994年の韓国が舞台で14歳のウニという少女が主人公なんです(1995年放送開始で14歳の子供たちが主人公の『エヴァ』とリンクするとこありますよね。)。この映画を観た時に、90年代を舞台にした青春映画沢山あるけど、今までとちょっと違うなと感じたんですね。それは何かというと、ウニが思考停止してないんですよ。それまでの90年代的青春映画って登場人物が割とすぐ思考停止してしまうというか、80年代のイケイケの時代が終わって、個人の時代に入って人との関わりが希薄になり始めて、この先頑張っても底が見えてるというか、特にみんなに好かれる必要はないみたいな。そういういろんな価値観が変わって行く中で大人たちが右往左往してる時代に、14歳のウニだけが自分の価値観で世界を見ていたみたいな。そういう映画だったんです。今回の『シンエヴァ』にはそれに近い視点があるんじゃないかと思ったんですよね。要するに、90年代という時代に遺してきた遺物としての『エヴァンゲリオン』。それに対する落とし前なんじゃないかと。で、その『はちどり』のウニの様な俯瞰的でブレない視点で動き続けてたキャラクターが『エヴァ』にもひとりいたなと。それがマリだったと思うんですよ。それで、あのラストなんじゃないかなって気がするんですよね。

ということで、案の定長くなりました(し、一回書き上げたの全部捨てました。)が、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』(『旧劇場版』を否定するのではなく同様に存在する物語としても)見事な最終回だったと僕は思います(あと、翻って『Q』を傑作に書き換えたのも『シンエヴァ』の功績ですよね。)。

サポート頂けますと誰かの為に書いているという意識が芽生えますので、よりおもしろ度が増すかと。