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新型コロナウイルスと「共有地の悲劇」

テーマ:「共有地の悲劇」

今回の小論文のテーマは、「共有地の悲劇」です。「一人一人の合理的な判断が、結果的には集団の不合理になることがある」という考え方です。特に昨今の新型コロナウイルスの感染拡大に対して、営業中止をするか否かの判断について、個人が合理的に考えると「なるべく営業を続ける」ことは一概に批判されるべきではないように思われます。しかし、集団としては「一切の営業を止めて、一気に感染を止める」方が利益が大きいでしょう。さて、この「個人の合理的な判断」と「集団の利益」をバランスさせるためにはどうすればいいかをテーマにしてみんなで考えてみました。

【解答例】

 「共有地の悲劇」とは、個人の合理的な行動が結果的に集団の不合理に繋がるということだ。何も対策を打たなければ、必然的に共有地が崩壊することを意味する。


 例えば、新型コロナの感染拡大期に、東京都では飲食店などの営業を「中止」するように要請し、全面的に協力した場合に協力金を支払うと発表した。これによって営業を中止決めたお店も多い。しかし、まだ営業を続けるお店も存在する。それは、「営業を中止して得られる協力金よりも継続して得られる利益の方が大きい」という合理的な判断があるからだ。そのようなお店を「無責任だ」と非難することは簡単だが、個人の合理的な判断として間違っているとは言えない。このままでは、営業を続ける一部のお店によって東京都という集団の感染拡大を止めることが難しくなってしまうだろう。


 これを止める方法は、個人でも「営業を中止した方がいい」と合理的に判断できるようにすることだ。例えば、都が一時的に配達員を採用し、営業を中止したお店に対して協力金ではなく無料の配送サービスを受けられるようにするなどの方法だ。それによって、中長期的にお店の営業を中止しても、将来的な利益を見込むことができる。実際、文京区ではテイクアウトやデリバリー可能な店舗を無料で登録できるサイトをオープンさせた。これをさらに発展させ、デリバリーの導入を強くサポートすることによって、個人が合理的に店舗の営業を中止することができるようになるのではないだろうか。


 最近では他国のような厳罰化のための法整備を望む声が多いように感じる。しかし、法律などのルールによる規制が唯一の方法ではないだろう。むしろ、先に述べたような個人の合理的な判断と集団の利益の方向性を一致させる方法こそが最も有効だと考える。

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