居住・移転の自由(移動の自由)

 憲法の基本書を紐解くと、憲法22条1項が保障する居住・移転の自由に関する議論として、①経済的自由権の側面、②人身の自由として側面、③精神的自由権としての側面、という3つの側面をもった複合的な性質を有するということが書かれている。

 1つ目の経済的自由権の側面は、好きな場所に行って商売をする自由として歴史的に考えられてきたことに由来する。確かに、一箇所にとどまって商売をしないといけなくなると売上の拡大を見込めなくなるので、経済が発展しないことは明らかである。よって、経済的自由権の側面はわかりやすい。

 2つ目の人身の自由は、もっとも直感的に分かる。自分がどこに行くかは自身の意思に基づき自身の身体を移動させることであるから特に疑問に思うこともない。

 ただ、3つ目の精神的自由権としての側面は、一般に”広く知的な接触の機会にふれるために不可欠であることから導かれる”といった説明がなされる。確かに、感覚的には分かるのであるが、上の2つほど直感的に分かるようなものでもなく、これまでずっとモヤッとしていた。

 しかし、このコロナ禍において、この3つ目の精神的自由権としての側面が非常に重要であることに気付かされた。

 昨年の春に全国一斉の緊急事態宣言が出された時、現在のようにコロナの状況に慣れていなかったため、外出することがとても制限されていたような気がする。それこそ、必需品を買いに行く以外には外出は許されないような感覚があった。まさに「出ていきたくても出ていけない」という状況であった。その後、緊急事態宣言が解除され、外出することが普通といえる日常に戻ったあとは「出ていこうと思ったら出ていける」という状態になった。ただ、緊急事態宣言解除前と後での外出率が大幅に変わったかといわれれば、さほど変わっていない。そんなに外出しまくりの日常を過ごしてきたわけではないので、実際のところはそれほど外出率に差がなかったのである。

 それにも関わらず、自分の心持ちはまったく異なっていた。緊急事態宣言中は自分の内心を外的要因で制約されているような重苦しさがあったが、緊急事態宣言後はそのような内心の重苦しさは減少した。この時、「出ていきたくても出ていけない」と「出ていこうと思ったら出ていける」との違いは、「上記の3つ目の自由が制約されているか否かの違いだったんだろう…」と思ったものである。今まで居住・移転の自由に含まれるとされる精神的自由権としての側面について何となく分かったような感覚から抜け出せたことがとても嬉しく思ったものである。

 このような視点からコロナにかかる政策をみていくと、簡単に罰則を適用しようとする姿勢は、人の内心に介入していく危険性もありうるので、判断は慎重にあるべきではないか?という考え方が浮かんでくる。

 せっかくの気付きを無駄にせず、しっかりと日々の事象を考えていくことが大切であると改めて思ったところである。

 (今日はこの辺で)

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