母親はもういないと実感した日-前編

同じような状況で悩んでいる方に届きますよう。
この記事は、精神的に何らかの問題がある母親の様子について記した記事です。


今年の6月ごろ、オフィスに母親から電話があった、と会社の人から私に連絡が。しかも2回。

急ぎなのは間違いない、何かあったのだろうかと自分の携帯を見ると、

留守電 ー 「「私」が亡くなったと聞きました。大丈夫ですか?連絡ください」

え、私実はもう死んでいただと・・・!?安っぽい漫画のようなシチュエーションに心の中でツッこんでしまいましたが、同時に”また始まったか・・
しかも今回はついに会社にまで・・・”と。


もういつからだったのか思い出せませんが、母親は病的な被害妄想の症状がありました。(多分私が大学生のころでしょうか。4,5年前)
この記事の前半では、これまでの症状について記載したいと思います。

■一番特徴的なのは被害妄想。

父親と市の医師会がグルになって、母親を貶めようとしている(母親は病弱で良く病院に言っていたが、医療ミスや医者の対応で医者に不信感を抱いていた)、先回りをして嫌がらせをしようとしている、父親が習い事先の先生と不倫している、等壮大なストーリーを、本気で信じているのです。
(あまりにも母親が真面目に上記ストーリーを語るのと、父親も悪い人ではないが短気で無神経なところがあるので、当時の私はどちらの言い分が正しいのか、判断できませんでした)

また、妄想は行動に及ぶことも。家中の小物電化製品(延長コードとか懐中電灯とか)を金槌で叩き割って回っていた。「自分が話していることが、そとのヤツらにばれている」と、盗聴器が仕掛けられていると思っていたそうです。
あとは習い事先の先生の家に押しかけて問い詰めたり。

父の部屋に侵入し、大事なものを破壊して捨てたり。

大学2年の頃だっただろうか。母と父は完全に家庭内別居状態になった。
最近までほとんど3,4年くらい、母親からの罵倒以外の会話はほとんどしていない。

ひどいときは父の部屋に怒鳴り込みに行って、警察沙汰になったことも。
父は平穏な生活もとい命を守るために厳重なカギを自分の部屋にかけているのですが、扉を何度も打ち付けたり怒鳴りつけたり、恐。

■次に特徴的なのは機嫌の激しさ。

機嫌のよい時は笑顔でニコニコしているが(これは普通か。。)
機嫌の悪い時は凄まじい。何度も部屋に来て怒鳴り散らして物を投げつけてくる。(階段から足音がするたびにうわぁ・・・となってました笑)
数日の周期で機嫌のいい日と悪い日を繰り返す。

機嫌の悪い日は、少し前に言った言動について取り上げて罵倒する。
「お前、あの時○○って言ったよな?あれどういう意味だ!?」

女性は過去に言われた嫌なことをずっと覚えている、とは本当なのかもしれないと思った瞬間でした。
母が父に不信感を感じているのも、妊娠中に確か「子どもなんていらない」と言われたことを、ずっと根に持っているからだと思います。
(フォローですが、父は短期で子どもな部分を持っていますが、不自由ない生活をさせてくれている良い父親です。)

当時大学生の私は、家にいること自体が大変なストレスでした。
父と話しているのを見られると「お前もグルだろ!!」と怒鳴られ、母は機嫌がジェットコースター。

正直命の危険を感じることもあったので、夜以外ほとんど家にいなかった気がします。バイトで今よりも働きづめでしたがそれを楽しいと感じるほど。

母にとっては私の存在も気持ちを荒らす原因になっていたので、適度な距離感を保とうとしていました。
普通の精神状態ではないので、妄想も罵倒も受け止めて肯定するべきなんですが、どうしても歯向かってしまうんですよね、、

■母親の過去

母親は幼いころから、両親(紛らわしいので祖父母と記載します)とうまくいっていなかったようでした。
かなり前からもう絶縁状態。最後に連絡を取っていたのは10年以上前かと思います。祖父は校長先生で、厳格な家庭だったと思います。
私自身、母と祖父母が絶縁状態になってから直接祖父母に会っていなく、
2年前、約10年ぶりに再開し母親のことを色々聞きました。
両者解釈が食い違っていたり、母の思い込みの激しさが軋轢に繋がっていたりと色々わかったこともありましたが、それはまた書く機会があれば。

そこから妊娠し私を育てる中で精神的に調子を崩してしまい、しばらく療養をしていました。その時は本当に暗くて笑わなかった印象です。
そこから私が小学校に上がり、笑うことも増え、小児喘息で病弱な私につきっきりで看病をしてくれたり、世話をしてくれました。
小1の頃1年間登下校送り迎えしてくれるなど、過保護で極度の心配性でしたが、、

高校に上がり、体が丈夫になった私は部活、塾、遊びなどで家にいない時間が増えてきました。
小中時代、私は母親にも猫をかぶっていたので、
高校に入っての私の突然のアクティブぶりとズボラぶりに母親は不信感を抱き始めたのだと思います、、
(どこほっつきあるいてんだ!遊んでばっかりでボーっとしやがって!とは大学時代よく言われたものです。間違ってませんが笑)

しかし、高校までは家族3人の会話や食卓があり、家族旅行もよく行っていました。母が病弱なことを除いては普通の、幸せな家庭だったと思います。

私が高校の頃、母親の子宮にチョコレート嚢胞が見つかり、手術を受けました。手術は結果的には失敗はしなかったのですが、母が言うには医療ミスのようなことがあったと・・・
徐々に母親が攻撃的に変わり始めたのは、そのころだったかもしれません。

■前編、おわりに

・・・・・かなり長くなってしまいました。散漫な文章になってしまいましたが、お目通しいただいた方、誠にありがとうございます。
私は家庭の事情を決して表に出したくないと思っているタイプの人間です。私の友人にもこの話はしていません。
家庭に悩みを持つ方は、同じように考えていらっしゃる方が少なくないのではないかと思います。

それでもこの記事を今回書いたのは、母親の生き様を文章に残しておきたい。そして、もし同じような状況で苦しんでいる方がいらっしゃるのなら、
1人ではない、ということを伝えたい。という想いからです。

母は、私を無事に育てるという母親としての役割を瀬戸際で全うしました。
もし、家庭内別居の開始や被害妄想など精神的不調の発症が数年早かったのなら、私は中高生。非行に走っていた可能性もゼロではありません。
母は父と過ごす日常がとても嫌だったと思うのですが、母として我慢し私を育て続けてくれていたのだと思います。

私が大学に上がりある程度自立し始めた段階で、母親は自由に生き始めました。自分のテリトリーを作るが如く家庭内は異様ではあったものの、母親が自由になれたつかの間の時間だったのではないかと思います。


後編では、オフィスの電話の件から現在の状況について書きます。

ご拝読ありがとうございました!