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空気を読み書きする

「空気をよめ」というフレーズを好んで使う人と、蛇蝎のごとく嫌う人とそれぞれいると思います。この記事ではいわゆる空気というものについて考察してみます。

「空気をよめ」と言ってる人は適切な情報共有を怠るタイプの人であると認識した方が良いでしょう。とはいえ、「空気をよむ」といわれる行為のうちの一部は誰もが身につけるべき事柄も含んでいます。

空気という言葉に限らず、ある言葉がさす意味が人によって違いすぎる問題が多すぎるように感じます。「技術力」「人間性」「オタク」「萌え」「ハック」など、言葉の意味が多重定義過ぎて、同じ言葉について語っていても、同じ認識を抱いているとは限らないというケースが多いです。とても多いです。

空気について語るなら「どういう定義なのか?どういう側面について言及するのか」といった前提は必要でしょう。

この記事では「空気をよめない人」というのは決して一種類の単一の存在ではなく、いくつかのパターンがあるということを整理することを目的としています。

場の空気をよむというのは、必ずしもコミュニケーションスキルとは限りません

個人的な結論から

2点あります。

まず1点。空気とは別にその場の情報を読み解く能力は鍛えた方がいいと思います。これはある程度後天的に身につけられるスキルです。最小限でも身につけるべきでしょう。

2点めは、情報共有不足をごまかすときに「空気」を持ち出す事例がとても多いですがそれはやめましょう。現代はダイバーシティ(多様性)を考慮しなければいけない時代です。内輪ノリがいつまでも通じると思わない方がいいでしょう。

場の空気

さて、空気とは何か?「空気」で検索すると、酸素・二酸化炭素・窒素などで構成された、本来の意味での空気の方がヒットします。当然ですね。

では、よく「空気をよむ」というフレーズに出てくる空気とは何かというと、Wikipediaでは「場の空気」という言葉で説明されています。Wikipediaを盲信しても仕方ありませんが、場の空気という言葉は、ここでいう空気を適切に表現出来ている言葉だと思うので、この記事では、以下一貫して「場の空気」と記します。

また、「場の空気」である以上、場を構成するために、そこには複数人の知的生命体がいるはずです。極めて当たり前に聞こえるかもしれませんが、前提条件として、そこに知的生命体(現代においてはおそらく人間)が数人以上いることでしょう。

場の空気が何故存在するのか?

コミュニケーションでは、口から発話する言葉以外の情報も重要とされています。これはノンバーバルコミュニケーションと呼ばれます。

ノンバーバルコミュニケーションは、場の空気を構成する要素としてはある程度の割合を占めますが、「場」というほどではない、一対一の会話においても重要なものですし、場の空気はこれだけで成立するものではありません。

別の要素として特定の人・集団にのみ通じる符牒を使うことがあります。

符牒については、Wikipediaの場の空気の記事をご覧ください。オタク、サブカル、あるいは別のメジャー・マイナー・マイジャー問わず、大なり小なり、そういったものによって身内を認識する行為は見受けられます。

他の要因としては、情報共有の度合いというものもあります。ソフトウェアエンジニアなら、疎結合と密結合という言葉で理解できるかもしれません。

場の空気をよめない人

これを理解していないか、意識できていない人も多いですが、「場の空気をよめない人」といっても、一概に同じタイプを指すとは限りません。

1) ノンバーバルな情報をよみとれずに相手の嫌がる発言をする人
2) その場に求められていない発言をする人(例:議論など)
3) 情報の共有度が低い人

他にもあるでしょうがこの3つを取り上げます。

1) ノンバーバルな情報を読み取れずに相手の嫌がる発言をする

相手が嫌がっているのに発言を続けるような行為です。セクハラなど、ハラスメントなどもこれに該当するでしょう。

ハラスメントなどの場合は、ある程度までは、社会通念、常識といった概念を知ることで、そういった発言を控えることは出来ますが、社会通念や常識といったものを、完全に共有できるとはかぎりません。

ハラスメントだと感じたらハラスメントである、みたいな、主観論・感情論でリンチするよう基準でいいのか?という気もしますが、人類はまだハラスメントや人権について未熟なための過渡期であることを考慮するとある程度は仕方がないのでしょう。

ハラスメント以外の場合でも、「話題の好き嫌い」みたいなものは人によって明確に現れます。

話題の好き嫌いなんかは明示的にしておけばいいのでは?と筆者は強く思うのですが、明示することを嫌う人たちがいるのも確かであり、そういった人たちがいる環境は「心理的安全性が損なわれている」環境です。

ただ、そうはいっても、相手が嫌がりそうな話題をするのは好ましくありません。相手と敵対的にして何もいいことはありません。

2) その場に求められていない発言をする人(例:議論など)

議論をしているとき、あまりにも関係ない脱線した発言を行う人は、議論の進行を邪魔しているといえます。

あるいは何かの交渉ごとのときに言わなくてもいいことを言ってしまう人もいます。

これは発言に限りません。行動においても同様です。

「あえて空気をよまずに発言する」というように、場そのものに対する問題提起をするということもあるでしょう。そういった人は、状況を正しく判断した上で、方向を修正しようとしているわけです。もちろんそれは当人が正しく判断してると思い込んでいるだけで、判断に失敗しているケースもあるでしょう。

この項目に該当するのは、その場が何をする場なのかを正しく認識できていない(その人が悪いとは限らず、その人に伝える義務を負った人が義務を満たせていなかっただけかもしれない)という状況です。

日本的な場の空気の理屈とは関係なく、ロジカルに考えれば、その時の必要・不要なことが分かるケースが大半です。

この項目はどちらかというとコミュニケーション能力というよりは仕事を遂行する能力などに近いかもしれません。筆者はこれに関しては、ある程度は、後天的に身につけられる能力・スキルだと考えています。

当人だけが悪いとはかぎりません。次に述べる情報の共有度が低いことが原因かもしれません。

3) 情報の共有度が低い人

1や2も、情報の共有度が低いから生じる問題だと言えますが、ここでは独立して扱います。

情報の共有度が低い場合「質問を多くする」「的外れな発言をする」といった行為が生じることもあるでしょう。

これは組織・集団に慣れていないなどが理由になることもあれば、ダイバーシティ(多様性)の時代ゆえに生じることもあります。

人と人がコミュニケーションをとるときには、必ず共有する情報が必要です。相手と共有している情報が無ければコミュニケーションは成立しません。相手が言ってる言葉も分からなければ、身振り手振りでも通じないはずですから。

同じ言語をしゃべる人同士であれば、少なくとも言語という共有の情報はあります。同様に同じ性別、同じ出身地、同じ職種、同じプロジェクト、共有の知人、同じ趣味なども、共有の情報です。

こういった共有の情報には、短期的・中期的・長期的など様々なレンジの情報があり得るでしょう。それは子供の頃からの教育だったりしつけだったり染みついたもの、最近の流行り物、5年単位の知識や経験など様々です。

ただし日本人だからといって日本語が通じるとは限りません。鹿児島の人と青森の人が、お互い方言でしゃべると、話が通じない、みたいなこともあるかもしれません。(通じるかもしれませんが、例え話なので…)。

価値観や認識、様々な違いがあるものと認識した上で、必要な情報をやりとりする努力が必要でしょう。

※筆者は、違いがあることを認識すること、違いがあってもかまわないと認識すること、違いを悪いことだと決して認識しないことなどが必要だと考えています。

ただし、ダイバーシティは重要ですが、必ずしもそれが支配的とも限りません。ある特定の人たちが作り出すは、多様性を受け入れるために発生したものではないかもしれず、たんに外からの闖入者になってしまうこともあり得ます。

無理に多様性や、他の何かを押しつけようとすると、そのは解散してしまうということもあるかもしれません。

まとめ

「場の空気をよむ」にも色々な種類のものがあります。ノンバーバルコミュニケーションを見落とすことによる問題や、相手の嫌がることをする人、そういった人は何かしら改善を目指した方がいいでしょう。

また必要なことをしない・できない、不要なことをしてしまうなどといったタイプの人は、コミュニケーション以前に、それぞれの場の意義についてロジカルに考え込み、行動に落とし込む練習をすべきでしょう。

ただ、それらは適切な情報共有がなされてないがゆえに生じているかもしれません。情報共有を適切にしましょう。身内だから通じるというのは多様性のある現代では、決して好ましくはありません。

※ちなみにこの記事を書いた理由は、なんとなく自分の中で分類をしたくなったからです。「空気を読めない人」という言及をしているときにごっちゃになってる発言を度々見かけるので。

・ 適切な情報共有が必要
・ 過剰な身内ノリは控えよう
・ 場にすべてを求めないようにしよう

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