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サブリミナルレモンティー

 レモンティーのかおり。異国を思わせるのに、どこか懐かしい、レモンティーのあじ。 

園町綾子は誰に送るでもない手紙、もしくは日記を書いていた。けれど昔からよく親しんでいるレモンティーの下りを書いていると、筆が動かなくなってしまったのだ。綾子はキャンドルの火を消し、膝にかけていたブランケットをどけて、おもむろに立ち上がる。

午後9時50分の蛍の光が響くスーパー。ひとりだというのに買い物カートを押す。がたがたと腕に響く振動。カートに乗せてもらっていた日のことを思い出した。あっというまに飲料コーナーに着く。迷わずとるのは、金色ラベルのレモンティー。反射的に涙が出そうになるのをぐっと抑える。少女だったころのようにポケットの中にハンカチはないのだ。しばしぼうっとしていたが、蛍の光の、寂寥という言葉が凝縮したかのようなメロディに押されて、足早にレジへと向かった。
「カードで払います」
店員がうなづき、営業的な笑顔を向ける。
「いつもありがとうございます」
綾子はわずかに頭を下げて手早く支払いをすます。無害な笑顔をつくるエネルギーなどとうに枯れてしまっていた。こんな時に綾子は自分のことをがきだと思う。私の知っている26歳はもっと大人だと思っていた、なんてハタチそこそこの子みたいなことを考えて、また嫌になる。母はこの年ですでに私を産んでいたというのに。冷たい夜風の吹く帰り道、レモンティーをぐっと飲みこんだ。

 あなたの好きなレモンティーのかおり。あなたが出してくれたレモンティーのあじ。あなたを近くに感じたくて、私はレモンティーを飲むのです。悲しいことがあったとき、そうして闇に葬るのです。あなたはどうでしたか?

 綾子の問いは虚空に消えていった。もう答えを聞くことはできない。部屋に充満するレモンティーの香りだけが綾子を包んでいる。


いつもありがとうございます🤍