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Human|わからない、といえる人

最近、コロナ関係のニュースは、会見のノーカット版を見ることにしています。というのも、厚生省のクラスター対策班で、北海道大学教授の西浦博さんの答弁は、とても信頼感があって、話を聞いているだけで安心できるからなんです。テレビではカットされちゃうこと多いんで(マジで情報操作しすぎ怒)、ノーカット版で見てるわけです。

それを見ていると、政治家は「できない」や「わからない」をほとんど言わない(記憶がないは、あるけど笑)。あいまいにいくつもの逃げ道を作って、話をたぶらかす。

しかし、西浦さんは、わからないことは「わからない」というのだ。

わかることと、わからないこと明確にしてますか?

あなたにとって、「わからない」ことはどんなことでしょうか?

まず「わかる」ということは、何に由来するのでしょうか。インターネットの漢字ペディアによると「見聞きしたり調べたりして、物事を知ることができる。世間の事情を知っている」とあります。

このことにあてはめたとき、あなたが「わかる」ことは意外と少ないように感じませんか。

たとえば、推測だったり、見聞きしていない噂のようなことで「わかる」とはいえません。物事を知ることまでできて初めて「わかる」わけですから、「わかる」といえることは意外と少ない。

この事実でいうと、かなり人と人との関係も、「わかった気」になっていることはあるんじゃないかなと思います。

夫婦のなかでも、喧嘩の原因は「わかったつもり」から起こることは、とても多い(これは「わかる」ことです笑)。

わからないということは、わかっている部分で考える

北海道大学教授の西浦博さんを見ていて、研究の分野の先生方と同じスタンスだなと、ということを思い出しました。

僕の場合、アートの研究者の方のお話をすることがありまして、その先生方も、「そうとはいえない。なぜならそのことを示す事実がわかっていないから」ということをいわれます。

たとえば、フェルメールの《ヴァージナルの前に座る若い女性》について話を聞いたときのことです。下のnoteにも少し書いたことがあったのですが、この絵は、フェルメールが最後に描いたともされる晩年の作品です。

僕は、執拗に「この時のフェルメールの気持ちは、前向きだったといえるのではないでしょうか?」ということを聞いていたのですが、話をお聞きした先生は、「フェルメール自身の手紙などの記録や、周辺の人物などによる記録がない以上、フェルメールの当時の気持ちはわからない」と、断言されました。

さらに、たとえば絵の中にあるサインや制作年についても「後から描き加えられた可能性もある」という常に疑いの目を向けます。

複数の証拠、最新の研究をもとに、立証されて初めて「わかる」といえる。こうした研究者の立場を理解していると、質問に対して、それほどわからないことや確証のないものを「そうかもしれません」と無理に答えるようなことをしない人を、僕は「信頼できる」と思うわけです。

「わからない」部分を見つけていく

僕は、「わからない」といえることは、恥ずかしいことでも、未熟なことでもないと思っていません。自分は「何がわかっていないのか?」がわかるということは、「わかる部分がある」ということです。

つまり、これは「自分がわかっている部分を知っている」ということになるわけで、自分の専門性を理解するということです。さらにこのことは、他人の専門性を理解することにもつながります。自分の専門以外のことを「わかる」とは、決していいません。

どこまで「わかる」ことで、どこまでが「わからない」ことなのか。

今一度自分の見聞きしてきたことを見つめ直し、そこから物事をきちんと理解できているのかを捉え直してみてはいかがでしょうか。

わからない」といえるようになれば、「わかる」ようにすればいいだけの話です。

フェイクニュースや噂に振り回されず、「わかる」ことを増やしていくことが、いま求められていると思います。

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