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Rock|セックス・ピストルズ《勝手にしやがれ!!》

ロンドンを中心に興ったパンクムーブメントは、イギリスにおいて若者のカルチャーとしてストリート的に発展したはずだったロックが、形式化・権威化され、さらには巨大マーケットに取り込まれてしまい、産業化したことに対するアンチテーゼとして生まれたものです。

いわゆるロックの原点回帰的運動は、たとえば、1970年代初めのデビッド・ボウイやマーク・ボランなどのグラムロック、1990年代のオアシスやブラーのブリット・ポップ、2000年代のリバティーンズなどが挙げられると思います。

1970年代後半に興ったパンクは、その原点回帰の中でも、より強烈なロック原理主義者たちの活動で、反体制、反モラル、反権威という既存の価値観をすべて否定しています。

そのなかでも徹底的に、ロック・ビジネスに反抗したのがセックス・ピストルでした。

じっさい、レコード契約をEMI、A&Mなどを経て、ヴァージンと契約したのも、バンドの傍若無人なライヴパフォーマンスが問題になって契約破棄などが続いたからでした。

そのため、1975年にデビューしたセックス・ピストルズが最初で最後のアルバム《勝手にしやがれ!!》をリリースしたのは、1977年10月のこと。すでに4枚のシングルをリリースしていたバンドは、それらを集めたベスト・アルバム的な内容であり、バンドとしての集大成ともいえるものでした。

そんなの誰でもできると鼻で笑うのか?

僕は、セックス・ピストルズをながく追いかけていたわけではありませんん。もちろん代表的な「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」や「アナーキー・イン・ザ・UK」、「プリティ・ヴェイカント」などは知っているけれど、ある意味でテクニック的にもバンドの力量を見ても、なかなか「すげー」といえるものはありませんでした。

それなのに、なぜイギリスの「パンク・バンド」の筆頭にセックス・ピストルズがあがってくるのかといえば、やっぱりそういったテクニックやアンサンブルのようなものを超えた、表現の純度のようなものの高さがあるのです。

アートとは何か、を考えたとき、言葉にできないことを作品として表出させることであると思っているのですが、ピストルズは、この時代において、消費経済のなかにどっぷりとつかってしまったロックを取り戻したい(本人たちがそう思っていたのかどうかしりませんが)という、時代の空気を見事に表現の域まで達成させたことだと思うのです。

もちろん、プロパーな人たち(僕を含めて)には、曲だけを聞けばたいくつな音楽だと思うし、何を今さら、と思ってしまうのですが、そういった「知ったもの」を無視して、ロックはアートである(つまり、形なきものを表現する)ということを考えると、むしろよっぽどロックなんじゃないかと思ったりもします。

これは、意外と料理でも同じで、形式やレシピに忠実であったり、食材の組み合わせの必然性(と呼ばれている過去の風習)、またそこで働く人たちにファッションも含めて、「料理とは」ということにかなり縛られているような気がする。

技巧」だけに思いっきりしばられている。それは、パンクロックが否定した、ハードロックやプログレのような技巧に偏り過ぎた表現に似ているように思います。

料理は、「おいしい」ものである必要はありますが、果たしてそれだけで、人の心をつかみ続けることができるのでしょうか?

おいしいという原理に寄り添いながら、技巧ではなく、ロックが反抗の旗印を掲げたように、料理も本来のおいしい(その中にある楽しさも含めて)掲げていくことも、ひとつの原点回帰から生まれる、新しいイノベーションの種があるような気がしてなりません。

そんなの、だれでもできるじゃん」ではなく、それは「おいしいのか」ということにどれだけ向き合えるかが大切なような気がします。

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明日は「Life」。「僕には、好き、という感情がない」というテーマ。ぼくの中にある感情を言語化してみたいと思います。




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