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写真の日に思った、写真に添える「ことば」について

今日は #写真の日 なんですね。
この2ヶ月くらい家にいる時間があったのと、ちょっとしたある機会に恵まれて、自分の今まで撮った写真を振り返る期間を過ごしていました。なんでこんな写真を撮ったんだろうって落ち込んだり、こんな良い写真撮ってたんだぁと一喜一憂しつつ、自分にとっての「写真を撮ることとは」を改めて再認識する、というかやっと深く自覚することができたかような気がします。

それと同時にここ最近、「伝えること」というのをとっても考える機会がありました。もしかしたら、いろんな人がそのことを考えたタイミングかもしれません。今日はその部分だけお話ししようと思います。(「写真を撮ることとは」を書き始めるととてつもなく長くなりそうなので。)

私は写真を撮るのと一緒に「ことば」も使います。SNSでも写真をアップするときに「ことば」を添えて投稿します。その方が見てる人に写真の意図が伝わりやすいからというのもあります。1月の個展でも、思い切って「写真」と「ことば」を同じ量で展示しました。だけど、今回いろいろ考えるなかで、よくない使い方もしてたかもってふと思うことがありました。なんて言うんでしょうね、必要以上に私の感情が入ってしまっているというか。たまに、誰かをコントロールしたくて(それが特定の人や場所か、もしくは総体的な誰かなのかは分からないんですが)発言してしまうことがある気がしました。具体的にってわけじゃないんですが。そして、そういう発言をしたときに自分の写真を使っていることに気付いたとき、とっても悲しいとういか、落胆というか、なんてことをしてしまったんだろうってかなり後悔しました。たとえばなんでしょう、「わたしは心が豊かになる丁寧な生活をしたいんだ」ってSNSで発信したとき。もちろんそれは本音なんですが、発信するきっかけは生活をないがしろにしている人を見かけて発信したのかもしれないです。そして、あわよくばその人に届いて直すきっかけになればとか思っちゃったりしてたかもしれないです。その相手が大好きな人であろうと大嫌いな相手だろうと。これは本当に例えばなのですが、そういうことに自分の写真を使っていたかもしれないと思うとなんだかやりきれないなぁってこの数日思いを巡らせています。

私が写真を人に見てもらいたい理由ってそんなんじゃないよなって、このお休み期間中に気付いた気がします。もっと自由に、見た瞬間に心が軽くなるような写真を撮っていきたいんだよなって。(その話しはまた今度にでも)「ことば」で「写真」を引っ張らないようにしていきたいな。写真は撮る人も見る人にとっても自由な心で向き合えるものであり続けて欲しいなって思います。だから、ほんとうに慎重に、大切に写真に「ことば」を添えていきたいなって思います。

最後まで読んでいただいてありがとうございます。写真展が続けられるようにサポートしていただけるとありがたいです…!