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正しい恋の終わり方 2

2.


雄介のことに加え一馬もことも考えなくてはならなくなった私の気分はその日、雨に追い打ちをかけられてはっきり言って最悪だった。実際、他人にへらへら笑顔を向けられるような状態ではなかったが、そんなことに負けるのは無駄に高いプライドが許さない。髪も服も決まらなくて落ち込みを通り越して苛々しながら、それでも家を出てバイト先に向かった。
私のバイト先は、大学と実家の間の駅にある、『Le phare』というレコードでBGMを流しちゃうようなアンティークな喫茶店だ。と言っても歴史は浅くて、三城さんという三十代前半の優男が一人で始めた新しい店だ。
そこで私は、「北見さんって接客向いてないねえ」「さっちゃんの笑顔って不自然だよね」と笑顔の三城さんに散々言われながらも、一年生のころから働いている。そんなルファルで私がまだ無愛想でがちがちに緊張しながら接客していたころ、ちょっとした常連として店にやってきたのが野田雄介だったのだ。

十一時少し前に店に行くと、狭い厨房で仕込みをしていた三城さんが「いらっしゃい」と言って顔を出した。三城さんの笑いは「にっこり」というより「へにゃり」という感じで、見るとなんだか気が抜けて、よくも悪くもいろんなことがどうでもよくなってしまう。
店には三城さんか、キッチン担当の豊田さんのどちらかが必ずいて、その他のアルバイトは昼から夕方から閉店までの二交代だ。雨のせいでいつもよりは心なしかお客さんが少なかったが、それでもランチタイムからしばらくはそこそこ忙しくて、余計なことを考えずに済む分私にはラッキーだった。
バイトって、来るまでは憂鬱だけど、始まってしまえば後は体を動かすだけなので結構好きだ。そう思えるようになったのはごく最近だけど。けれど、午後になって雨脚が強くなるとぱったりと客足が途絶えて、四時を回った頃には開店休業状態、ティータイムの片付けもあらかた終わってしまった。

「おつかれさっちゃん。今日暇だったねー」
「一人で大丈夫ですか?」
「んー、だいたい片付いてるし、豊田君が五時半くらいから来てくれるから大丈夫だよ」

にこにこしながら三城さんが言う。私は三城さんが怒ったところを見たことがない。どんなにお店が忙しくてカウンターの内側が戦場のようになってもこの笑顔を崩さない。純粋にすごいと思う。私なんてすぐこんな風にがたがたになってしまうのに。

「……あの、ちょっとここで時間つぶしててもいいですか?」

今日はもう他の予定はない。帰って、家で晩ごはんを食べて、寝るだけだ。眠りに落ちて何も考えずに済むようになるまでの、ぽっかりと空虚なあの時間があまりに長すぎる。そう思ってとっさに訊いた。三城さんはたれ目をぱちぱちさせて言った。

「いいよー。なんか食べてく?」
「うーん、晩ごはん食べられなくなるからいいです」
「わかった。じゃあさ、ちょっとだけ店番してもらっていい? 俺裏で発注してきちゃうから」
「いいですよ」
「ありがとー、助かる。じゃあちょっとお願いします。好きなもの作って飲んでいいよ」

少年のような笑顔で言うと、三城さんは裏へ引っ込んでいった。店で出している飲み物なら一通り自分で作れるけれど、何も飲みたくなくて、特に自分の作ったものなんてお腹に入れる気にならなくて、私はカウンターに突っ伏した。
扉を閉め切って人の気配のない店内は本当に静かで、柱時計の中に閉じ込められたようだった。私は自分自身がアンティークの家具になってしまったような気持ちで、顔を腕の中に埋めたままぴくりともせず、まぶたの裏の暗闇を見つめていた。そうして、すこし強い雨の音が心地いいな、ということと、もう雄介に会えない、ということを交互に考えた。

どれほど時間が経ったのだろう、店の奥から足音がして、次いでカタ、という小さな音と共にカウンターに何かが置かれた。顔を上げると、目の前に白いカフェオレボウルと、私を見下ろす三城さんがいた。

「……ありがとうございます」

三城さんと目を合わせるのがためらわれて、視線を落としてカフェオレボウルを手にとった。中に入っているのは、カフェオレにホイップクリームの乗ったメニューにはない特別製。
取っ手のない白いカフェオレボウルは、丸めた手の中にすっぽりと収まる。陶器を通して伝わる熱に手のひらがじんとしびれて、いつの間に冷えていたのか、とぼんやり思った。

「野田君、最近来なくなったね」

カウンターの内側に立った三城さんがぽつりとつぶやく。雨の降る窓の外を見ている三城さんに、何もかも見透かされている気がした。
目を閉じて、ひねり出すように答えた声は、あきれてしまうほど小さくかすれていた。

「……もう来ないと思います」
「どうして」
「……どうしても」

のどの奥から何かがせりあがってくる。目の奥がじわりと痛んだ。

「もう、会わないと、思います」

私は強く目をつぶって、それだけどうにかしぼりだした。
本当は今日、もしかしたら雄介が店に来るかもしれないと思った。お客さんが一番少ない、いつものこの時間に。だけど、ここに座って声に出してみて、わかってしまった。もう雄介には会えない。彼は私の前には現れない。それは、圧倒的な、現実だった。
のどがひりひりと痛んだ。ボウルを両手で持ったまま目を覆い、声を、涙を飲み込んだ。
つらい。悲しい。苦しい。くやしい。さびしい。
あらゆる感情が浮かんでは、全部がぐちゃぐちゃにまざっていく。

「つらいね」

独り言みたいな三城さんのつぶやきを、私は背中で受け止める。

「こんなに好きだったのにね」

雨の音に混じるように、穏やかに注がれる声。
三城さんのその言葉を聞いたとき、私は自分の中にわだかまっていたものの正体を知った。
こんなにも好きで、大切で、私の幸福そのもので、そんな風に思っていたことが雄介に伝わっていなかったことがたまらなく悲しい。
今ならもっとうまくやれる。雄介がどんな言葉を、態度を求めているのかちゃんとわかる。今の私なら、雄介を失わずにいられるのに、そんなチャンスは二度と訪れないという事実が、黒い柱となって私の心にずしりと突き立てられている。
指先ひとつ動かすこともできないような圧倒的な無力感。
誰かに傍にいて欲しかった。
三城さんの手が、そっと私の頭を撫でて、そして気配は離れていった。

誰か、じゃない。
誰でもいい訳がない。
ゆうすけ、と思う。
今、いま、ここにいて欲しいのに。

その夜、私は一馬に、長いこと放置してしまっていたメールの返事を送った。

『この間はごめん。あと、ありがとう。
でも、私まだ全然終われてない。新しいことを何にも考えられない。すまん。
必ずきちんと返事をするから。だから、こんなことを言うのは、卑怯だと思うけど、今がまだ冬の間だけ、あたしに片思いをさせてください。』

〈続〉
正しい恋の終わり方 3
正しい恋の終わり方  1

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