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正しい恋の終わり方 5

5.


夢を見た。
暗い世界で私はあちこちに小さな傷のある右手と手をつないでいた。けれど気づくとその手は消えていて、私は空っぽの左手を呆然と見つめた。
音楽がしてぱっと振り返ると、今度は左手は三城さんに、右手は裕也につながれていた。三城さんは反対の手で山県さんと手をつないでいて、右を見ると裕也の向こうには香苗さんが、さらにその向こうには、顔のないのっぺらぼうの男の人が見えた。
私たちはルファルの店内でよくわからない歌を歌いながらぐるぐるとまわり始めた。回りながら、ふと気づくと山県さんは豊田さんに変わっていた。次の瞬間私は三城さんとカウンター越しに向かい合っていて、頬杖をついた三城さんが言った。

『君はそっち側、俺はこっち側。その距離は、戦闘機でも越えられないんだよ』

はっと顔をあげると、カウンターの内側にはマルボロ号を持った雄介が立っていた。

*

「意味わかんない……」

布団の上で、起き上がる気力もなくつぶやく。
別れてから、雄介の夢を何度か見た。その夢の中で、いつだって最後に雄介は私に背を向けた。だけど今日の夢はいつもとどこかが違っていて、それが無性に怖かった。
裕也にメールを送ってみたけど返事がなくて、大学で見かけても私は声をかけられなかった。
学部の違う一馬と会うことはめったになかったけれど、それでも時々メールをくれて、私もきちんと返信するようにした。メールの本文を何度も推敲しながら私は、冬が終わったら私たちは一体どうなっているのだろうと思った。

気が付くと一月は終わりに近づいて、大学二年生も終わろうとしていた。周りが急激に変化し続ける中で、私一人ずっと、川底の淀みのように停滞していた。
なんだかとても眠かった。いつからか、私はずっと冬眠しているのかもしれない。

*

恐ろしく寒い一月最後の土曜日、夕方からのバイトに行くと、昼上がりのはずの豊田さんがカウンターにいた。

「あれ、三城さんは?」

訊くと、豊田さんは店の隅をあごでしゃくる。見ると、角のボックス席で三城さんと山県さんが話をしていた。
ただしゃべっているだけなのだけど、元夫婦なのだと思って見ると勝手にざわざわしてしまう。ふと横を見ると、豊田さんは険しいような、苦しいような顔をして三城さんたちを見ていた。見てはいけないものを見た気がして、私はいそいで視線をそらした。
二十分ほどで話を終えて、三城さんは山県さんを送り出した。

「なんの話だったんですか?」
「彼女の雑誌でこの店取材したいんですけどーって話」
「受けるんですか?」

豊田さんが胡乱げな目をした。

「いいや。ていうか、もう何度か断ってるんだけどね。俺別にこの店宣伝したくないし、忙しくなっても面倒だし」

三城さんはまるっきり関心がないようで、詳しいことには触れなかった。

「居残りさせてごめんねー豊田くん。すぐ着替えて交代するから」

そう言って、ぱたぱたと奥に引っ込んでいった。
それを見送ったあと、私は豊田さんに、気になっていたことを訊いてみることにした。

「あの、三城さんと山県さんがゼミの知り合いってことは、二人とも豊田さんの先輩ってことですよね。先輩同士が結婚したってことですか?」
「……ああ。だから結婚式も出たよ」

三城さんと山県さんのカップを洗いながら、豊田さんは答えた。

「就職して1年くらいですぐ結婚したから驚いた。三城さんはモテたけど、結婚はしない人だと思ってたから」

俺が勝手に思ってただけだけどな。
自嘲するようにそう付け加える。
今の豊田さんは、いつもの不遜な雰囲気が剥がれて、なんだか無防備になっているような気がした。

「豊田さんは、なんでルファルで働こうと思ったんですか」
「三城さんに誘われたから」
「……それだけ?」
「それだけだよ」
「会社まで辞めて?」
「そうだよ」

濡れた二つのカップを水きりに置いて、豊田さんは私を見た。

「――それだけで十分だったんだ。俺は」

その瞳には、何かを決意した人だけが持つ、凪いだ湖みたいな穏やかな強さがあった。

――ああ、そうか。
ここにも恋が一つあったんだと。
その時私は気がついたのだった。

*

三城さんと交代して、豊田さんは帰っていった。
ひどく冷え込んだその日の夜は客足が少なくて、ふいに手が空くたびに、三城さんは遠くに意識をさらわれているようだった。

ルファルは平日は早開き早じまい、休日は遅開き遅じまいというサイクルで営業している。土曜日の今日は九時半がラストオーダーなのだけど、その頃にはすっかりお客さんがいなくなっていた。
二人で黙々と閉店作業をして、そろそろ電気を消して店を出よう、というところで窓の外を見て気づく。

「三城さん、雪が」

窓に駆け寄って外を覗き込む。白いものがはらはらと落ちていく。人通りの少ない通りにはうっすらと雪が積もり始めていた。結露した窓はあっという間に指先の熱を奪った。コートを着た三城さんが後ろに立って窓から外を見る。

「本当だ。どおりで寒いわけだね」
「今年は降らないのかと思ってました」
「俺も。だけど、なんだかんだ毎年降るよね、雪」

それからしばらく二人で、何にも言わずに窓ガラスの向こうで雪が降る音を聞いていた。

「あたし、雪好きです。寒いけど、ちゃんと冬が来たんだなと思うから」

背後に立つ三城さんが笑ったのがわかった。三城さんはマフラーを巻きながら私に尋ねた。

「さっちゃん、俺車で来たんだけど、乗ってく?」
「いいんですか?」
「うん。明日も遅番だしね。ただ、ちょっとだけ遠回りしてもいいかな?」

人差し指で車のキーをくるくると回しながら、三城さんは首をかしげて微笑んだ。

*

黒のフォルクスワーゲン・ビートルが、夜の国道二〇号線を走る。
雪の降り方はゆるやかで、ワイパーが時折けだるげにフロントガラスを横切った。時間はもうすぐ二十三時になろうとしていたけれど、都心の街並みはネオンライトがちかちかとまぶしかった。

「俺はねえ、深夜の街が好きだな」

三城さんが唐突に言った。少し考えて、さっきの私の「雪が好き」に対する、三城さんなりの返事なのだと分かった。

「夜が明るくて騒がしいと、真夜中でも起きて動いてる人がいて、生きてるのが自分だけじゃないってわかるから」

車は雪の中をゆっくりと進む。私は、黒いビートルが溶けるように夜の街を走る姿を想像した。

「昔からね、俺はなんでかいつも、世界に自分一人きりみたいな気がしてた。みんなが寝静まった夜は特に怖かった。昼間の騒がしい嘘がはがれて、一人ぼっちの世界の真実を見ちゃったような気がして。
今でも思うよ、子供のころの俺がこうやって夜の街に来ることができてたら、あんなにも夜を恐れずに済んだのにって」

横目で見る三城さんは、私よりも一回りも年上のはずなのに、傷つきやすい思春期の少年に見えた。

「大人になって、ああいう夜を過ごしてたのは自分だけじゃないんだってわかっても、それでもまだ俺は孤独だった。そういう時にまどかと会って、好きだって言ってくれて、この人と一緒になっちゃえば俺はもう孤独におびえずに済むんだと思って、それで結婚したんだ」

三城さんは淡々と語る。
明るい外に反して車内は暗く、なんだかまだ夢を見ているようだった。ふと窓の外に目をやると見覚えのある街並みで、新宿駅に近づいていることがわかった。

「――だけどずっと後悔してた。俺は、ただ自分が寂しさから逃れるためだけにこの人と結婚したんじゃないかって。結婚式の誓いの言葉ってあるだろ。あれが苦しくて仕方なかった。永遠の愛を誓いますか? 俺は俺のエゴのために、この人を一生利用し続けるのですか?」
「……だから別れたんですか」
「そう」

短く答える三城さんは、街灯の光に陰影が深くなって今度はいっぺんに年老いたように見えた。
ワーゲンは南口を通り過ぎてゆるやかな坂を下る。香苗さんのミニクーパーが私の横を滑り降りていったように。底の見えない闇の中に落ちていくように。

「結局俺は、嘘の約束を続けることに耐えられなかった。わかったんだ。俺という人間は、たぶん一生、どこにいても、誰といても寂しい。そして俺はルファルを始めた。ルファルのあの場所は、カウンターが守ってくれる。それ以上、踏み込むことも踏み込まれることはない」
「……どうして、そんな話を私に」

三城さんは口の端をちょっとだけ上げて横顔だけ寂しそうに笑うだけで、何も答えなかった。
二〇号線が短いトンネルに入り、オレンジの点灯が安っぽく車内を染め上げる。

「ねえ、言わないでいたけど、さっちゃんと別れた後一度だけ野田くんが店に来たんだ。野田くん言ってた、運命とかずっと一緒にとか、さっちゃんがそういうものを無条件に信じてることが怖いって。さっちゃんのことがいくら好きでも、守れない約束をして、いつか君を裏切ることになるのが怖いんだって」

私は言葉をなくして顔を上げた。そんなの聞いてない。そんな、勝手に思い悩んで、勝手に苦しんで、勝手に結論を出して。
雄介の、うっとうしい長い前髪。節くれだって、いつでも傷のたくさんある手。身長差が大きくて、身をかがめるように私の話を聞いてくれた。そういう、心のどこかにしまい込んでいた記憶が勝手に溢れ出していく。名前を滅多に呼ばない私が「雄介」と呼んだら嬉しそうに笑った、そんな私の知っている、野田雄介。
怖かったなんて、そんなの知らない。

「……なに、それ。聞いてない、そんなこと。どうしてそんなに勝手なの」

急に目が熱くなって、頭がじくじくと痛み出す。さっきまで霞がかっていた頭の中が徐々に澄んでいって、私をゆり起こそうとしてくる。
まっすぐ前を見て、三城さんがハンドルを切る。カーブを曲がる遠心力。

「野田くん自分でも言ってた。弱くて身勝手で、どうしようもないって。だけど、俺は自分も弱いから、野田くんの気持ちがわかる。今だって、さっちゃんにこんな話をして、自分がまどかに謝った気になっている」
「……私も。私も、弱いです。三城さんの話を聞いて、雄介を許した気になろうとしてる」

私はいまや、助手席でシートベルトにしばりつけられたままぼたぼたと泣いていた。
もうずいぶん泣いたと思っていた。涙はとっくに枯れて、からからに干からびて、あたしはこのまま終わっていくんだと思っていた。だけどそれでも心のどこかが、あたしに終わるなと涙を流させる。
雄介。三城さん。わたし。山県さん。豊田さん。知っていること。知らないこと。
孤独と嘘と、つないだ手のあたたかさ。

――報われないとか振り向いてくれないとか、わかってても、それでも近くにいられる方が幸せってこともあるんだよ。

――未だにあたしは三城を見ていると苦しくて、もう全部投げ出してもいいからなんだってしてあげたいような気になるの。

ああ、今ならわかる。裕也の言葉の意味が。
山県まどかさんの気持ちが。
だからこそ私は、いま、隣のこの人に言ってあげたい。

「――それでよかったんじゃないですか。寂しいから傍にいる、一緒にいる理由はそれで充分だったんじゃないですか」

寂しいなら、怖いなら、ただあたしと一緒にいればよかったんだよ。

はっとしたように一瞬こっちを見て、三城さんは泣きそうな顔で笑った。

「……そうだね。きっとそうだった」

いつのまにか雪はやんでいた。灯りの少ない住宅街で、澄んだ空気が月も星も何もかもクリアにしてゆく。
それを見ながら、私はようやく長い長い眠りから目を覚ましたような気がしていた。

<続>

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