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親子という名の呪いについて。

主人公。野坂梨枝、28歳。ドラッグストア店長。実家暮らし。
仕事はそこそこ頑張っているけれど、家のことは母親が全部やってくれている。夫と離婚し、女手一つで子供を育て、家のローンを返済し、家事も手を抜かずにこなしてきた梨枝の母は自分にも他人にも厳しく、「あんたは世間知らずなんだから」「ちゃんとしなさい」「みっともないことをしないで」と繰り返す。そう言われるたびに、肺の狭くなるような気分を味わいながら、梨枝は何も言い返せない。なぜなら、母の言うことはこの上なく正しいから。
夜勤のあと、明け方に帰宅してテーブルの上の用意されているのは、手の込んだ、栄養バランスも完璧な朝食。それがまた正しくて、おいしくて、重い。

いい年になって親に世話を焼かれていること、家事もろくにできないことに梨枝だって焦りを感じているし、家を出ることを考えないでもないけれど、「家から職場に十分通えるのにお金がもったいないでしょ。自分のことだってろくにできないのに無理よ」と母に一蹴され、それに反論する言葉を持たない。何かが違う、という思いだけがみぞおちに溜まっていく。
それに、母の正論だけでなく、梨枝を実家に留まらせる大きな枷がある。
梨枝が出て行ってしまうと、母が一人になってしまう、ということだ。

兄が結婚して出て行った時、梨枝の母はひどく狼狽し、激昂した。一人で家庭を守ってきた母のそんな姿を見ていられず、梨枝の中には自分が家に残ろうという漠然とした決意があった。
梨枝は母を置いていけない。
だって、かわいそうだから。

そんな閉塞感のなかで生活していたある日、梨枝の職場であるドラッグストアに、三葉くんという大学生の男の子のアルバイトが入ってくる。
梨枝に懐き、ストレートに好意を伝えてくる三葉。男性との交際経験のない梨枝は戸惑うけれど、大きな渦に巻き込まれるように、三葉との恋に溺れていく。
それと合わせるようなタイミングで、兄から電話がかかってくる。

『お前、家を出たいか』
息を呑んだ。兄はなにを言っているんだろう。あんなに悲しむ母を置いて、自分勝手に家を出たくせに。

それでも、梨枝の口からこぼれ出たのは、「出たい」という言葉だった。
妻の出産を機に実家に戻ることになった兄に逃がしてもらうような形で、梨枝は家を出る。
それを告げた母は、ヒステリックに梨枝を糾弾する。

「ようするに、あんたも母さんのことがきらいになったのね。そうなんでしょう。正直に言いなさいよ。ああ馬鹿馬鹿しい。あれだけお金をかけて、こんな自分勝手な娘にしかならなかったなんて!」

母のむき出しの感情に、そして、この期に及んで母から「もう大人だもんね」と認めてもらうことを望んでいた自分自身の幼さに途方にくれながら、それでも梨枝はアパートを探し、家を出る準備をする。
出発の朝、不機嫌そうだった母は、梨枝の背中に向かって突き刺すように叫ぶ。

「いつかわかるわ。この世に、お母さん以上にあんたのことを考えてる人間なんていないんだから!」

――これが愛なんて嘘だ、と、目をつぶって私は思う。
これを愛と呼んでいいはずがない。

つきつめれば他人同士であるはずなのに、親子は時に、相手を自分自身のように捉えていることが往々にしてあるように思う。子どもにみっともないまねをしてほしくない、親の恥ずかしいところを見られたくない、という感情は、要するに自分のみっともないところや恥を見られたくないという意味に他ならない。
他人同士であれば到底言わないような、踏み込まないような差し出たことが、親子関係になった途端に容認されることがある。はたから見れば異常なことが、家族という繭に内包されて見えなくなってしまうことがある。

地方出身の女友達が、親からしきりに地元に戻ってくるよう言われる、と言う。
父親のコネで地元企業に入れてあげるから、と入社試験の資料が送られてきたそうだ。
仕事が好きで、東京にいたいと言ったそのすぐあとに彼女は言った。
「やっぱり戻らなきゃいけないのかなあ」
それを聞いて、私はただ怖かった。子どもの人生を平然とねじ曲げようとしている彼女の親も、それに従ってしまう彼女にも。そんなことことがまかり通ってしまいそうな、親子という関係にも。
親子関係は愛だけでできてるわけじゃない。愛や情や思いやりも含まれているとして、でもそれだけじゃない。もっと暗くて濁ったものが絡みついて、呪いのように発露する時がある。
そう、呪い。血の呪い。他人を自分自身のように捉えてしまう呪い。

「私だったらそんな書類、ビリビリに破いてその写真を親に送りつけるね」

反射的に口をついて出た言葉だった。でも、本音だった。私が彼女の立場だったら、言葉通りのことを実行に移すだろう。
お母さんなりに考えてるんだよとか、心配してるんだよとか、そんな綺麗事で包み隠させない。他の誰も言ってくれないとしても、私だけは言ってやる。
そんなのは愛じゃない。あなたの親は、あなた自身じゃない。あなたの親のかわいそうは、あなたのかわいそうじゃない。あなたのみっともないは、あなたの親のみっともないじゃない。

家を出た後も、梨枝は母の言葉に囚われ、母のような目線で三葉くんを見ている自分に気づく。
それでも、少しずつ、梨枝と母との距離の取り方を覚えていく。一人暮らしするとか、彼氏を作るとか、そういう物理的な方法ではなく、精神的に大人になる術を身につけてゆく。

親子という呪いの糸は強い。ちょっと物理的な距離を置いたくらいでは解けないくらい。だって、そこにはやっぱり、愛だって情だって一緒に縒り合わされているから。
だから、切り離したって大丈夫。ちょっと痛みを伴って、血が出たって大丈夫なのだ。
ただちょっと、自分とは違う人間だと思い知るだけ。
だから、大丈夫なんだよと、自分に言い聞かせるみたいに思った。

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