レース

かわいい服が着られない。

先月友達にあげたスカートのことが頭の片隅から離れない。
膝丈のフレアスカートで、黒のギンガムチェックの柄で、その上を覆う形で黒のレース生地が乗っている。品のよい、誰が見ても文句なしにかわいい、と形容するスカートだった。もちろん私だってかわいいと思っていた。ただ、似合わなかった。どうしても、自分がこのスカートを着る側の人間だと思えなかった。

そもそもが、自分で買ったものではない。母親が自分用に買って、でもやっぱり若すぎるから着られない、と言って私にくれたのだ。
それは数年間クローゼットに吊るされていて、実際に着たのはほんの数回だ。それを着ていった日、かわいいねと褒められた。私も改めて、かわいいスカートだと思った。
けれど、どうにもしっくりこないというか、服と体が分離している感じがして、何回かトライして、着るのをやめてしまった。今日は何を着ようかと朝クローゼットを開けるたびにそいつは目につくけれども、かわいいなあ、でも似合わないんだよなあ、と手を伸ばすことができなかった。
それで、いつもかわいい服を着ているかわいい友達ができたから、いい機会だとその子にあげることにした。彼女はすごく喜んでくれたし、私は私で、そのスカート対する衣服としての役割を果たさせてやれないことへの妙な罪悪感から解放された。
これでよかった、はずだった。

ファッション雑誌をまったく読んでこなかったし、用語にも詳しくないので、要領よく説明するのが難しいのだが、服において私が好きなのは、古着や、少し変わった形や柄の服だ。色で言えば、目を引く原色、それ以外はモノトーン。個性があって、ぱっと目を引くようなデザインの服があれば、つい手を伸ばしてしまう。
コーディネートは、インパクトのあるアイテムを1点と、あとはシンプルに、というパターンが多い。モード系とサブカル系に片足ずつ突っ込んでいる感じと言ったら、なんとなく伝わるだろうか。
パステルカラーや小花柄、レースやフリルは、私からするとどこかあいまいで野暮ったかった。店先に並んでいたり、誰かが着ているのを見る分にはよくても、自分がそれを着たいとは思わなかった。
私にとってファッションは、個性であり、主張であり、「こうありたい自分」の具現だった。私は、個性的で、はっきりしていて、強くなりたかった。
そして、かわいい女になんか、絶対なりたくなかった。

「すごい柄だね」「でも似合ってるね」。そう言われることが一番の誉め言葉だった。自分のファッションの方針が固まり、認知され、「この服はあなたらしいね」と言われるのは心地よかった。
私の目論見は、ある程度成功しているはずだった。
けれども、あの黒い、ギンガムチェックのスカートが、忌避してきた「かわいい服」が、クローゼットから姿を消した今になって、ささやいてくる気がする。

「かわいいと思うなら、着ればよかったのに」

スカートをあげたのとちょうど前後して、「もっとかわいい服を着ればいいのに」と言われたり、「自分も昔は変わった服を着てたけど、今はあまり気にしなくなった」という話を聞いた。数年前だったら歯牙にもかけなかったはずの言葉も、妙に心に残っていた。
それで初めて考えた。

どうして私はかわいい服を着られないのだろう。
それは、確固たるものとして築いていたつもりの価値観が、がらがらと崩れる問いだった。
どうしてかわいい女じゃだめなんだろう。いつからかわいい服が似合わないと決めてしまったんだろう。「自分らしくない服」を着てはいけないことになったんだろう。変わった服を着ていなければ、個性を見出してもらえないと思ったんだろう。凡庸な服を着ていたら、凡庸な人間にしかなれないと思ったんだろう。
服なんて皮だ。なりたい自分には、中身でなれるはずなのに。

やっぱり、少し変わっている服が好きだ。変わった服を着て、意外と悪くなかった時が嬉しい。変なたとえだが、暴れ馬を乗りこなしたような気持ちがする。
そしてやっぱり、かわいい服は子供っぽくてあまり好きになれない。リボンだのフリルだの花だのの装飾も、なんだか安っぽくてうっとうしい。
これはこれでいいのだと思う。単に私の好みの問題だし、何を着るかによって自分をどう演出するかも、大切なことだと思う。
でも、「着たい服」については、考えを変えた。「かわいいかどうか」「自分らしいかどうか」だけで選択肢から外すことはやめにした。それは、結局自分の決めたルールでがんじがらめになってだけだと気づいたからだ。

鎧のように中身を覆い隠すのではなく、「着たい服を着る」「好きな服を着る」というシンプルな価値観を積み重ねた先に、「私らしさ」は内側から滲んでくると期待して。

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ハッピーになります。