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心にいつもおいしい珈琲を

コーヒーが好きです。
この国の豆が、とかドリップはここをこうして、とか。そういった知識はあまり無いのですが、昔からコーヒーが好きでほぼ毎日飲んでいます。

いつかの春の日の話を。
「職場のすぐ近くにおいしいコーヒー屋さんがあるのよ」と上司に言われ、散歩付きのコーヒーブレイクに行った時の話です。
お店は本当にすぐ近くで、その日はとても暖かかったのでコートも羽織らず外に出ました。
木々の間から午後の光が差し込んで、風が葉を鳴らし、時計の針が少しだけゆっくりと動いていました。


その時私が頼んだのはたしか、店長さんがすすめてくれた酸味の強いブラックコーヒー。 
雑談をしながら会社に向かって歩く道すがら一口、また一口と口に含み、最初は「コーヒーってこんな感じの味だったっけ」と考えていました。

もう少し飲むうちに、やっと気がつきました。
「あ、これ、あれだ。コーヒーの味を感じたのが久しぶりなんだ」。

あの頃の私はコーヒーの味だけではなくて、多分ほとんどのものの味がよく分からなくなっていて、ただそれは味覚がどうとかだけではなく、心に「味」の入り込む隙間すらなくなっていたのだと思います。
苦労話をしたいわけではなくて、多分味って舌だけで感じるものでは無いと思うのです。せっかく舌は感じていても、心にその隙間がなければどこかに流れ出してしまう。そんな風に思うのです。

私があの時再び、「おいしい」を勝ち取れたのは、壊れた日常から「逃げ」たからでした。
それからその先の日常を守ってくれる優しい人々が居たから。
「逃げ」の選択をする時、「進むも地獄、退くも地獄。それなら今と違う地獄の方がまだマシ」と感じていた私にとって、その「逃げ」はある意味かなりの「攻め」だった気もします。
大好きなドラマの主人公のセリフで、「恥ずかしい逃げ方だったとしても、生き抜くことのほうが大切で、その点においては異論も反論も認めない」というものがあります。
おいしいコーヒーが帰って来たり、こんな風に役に立つ、わけです。


普通の日常が、普通に続くことを信じて、ご飯を食べて、眠って起きて、コーヒーをいれる。
大丈夫、今日もコーヒーはおいしい。
きっと明日もおいしいから、またコーヒーをいれよう。
そうやって毎日毎日少しずつ進んで、できる限り嫌なことは忘れて、楽しいことばかり思い出して、そうやってそうやって生きていきたい。
そう上手くはいかないなんて、そんなつまらないこと言わないで。
そうやってそうやって、生きていこうよ。

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