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#17 上手くても、上手くなくても

 日本に戻ってきて何ってとにかく物が安い。自分だって日本円でお金を稼いでいるというのに、ちょっと台北から戻ったら、あまりにも全てがびっくりするほど激烈に安いので(交通費以外)うっかりウハウハした気持ちになってしまって、稽古の帰り、藤沢駅で乗り換えるついでに名店ビルの地下で買い物をして帰ってご飯を作るはずが、そのまま通り過ぎて海鮮丼を食べに行ってしまった。1980円の海鮮丼は日本人的にはそこまで安い値段ではないけど、こんなに新鮮でこんなに美味しい魚がたっぷり、何種類も、何切れも、こんなきれいに盛り付けられて、台湾ではこんな値段でこんなクオリティの食べ物だなんてあり得ない。日本はお魚の国だから、というのを考慮に入れないとフェアじゃないから、じゃあ台北でこの間知り合いと行った台湾料理のお店と比べてみるか、と思ってメニューを見てみると、ちょうど同じくらいの値段だったのが豚足。1980円の豚足。おったまげる量が乗っかってるかよっぽど美脚の有名豚でもない限り、納得いかない。今の台北ではビール1杯1000円くらいする。ちょっと豚足で1杯やって、というのに3000円もかかるなんて、一体どうやって生きていったらいいのか。

 ずいぶん変わったなあと思う。私が子どもの頃は日本って夢の国みたいだった。今は別の意味で夢の国なのだが(「こんな値段で!あんなものも!こんなものも?いいのかしら!」)、私が子どもの頃、夏休みや冬休み、台湾へ帰る前、母にお願いしていとこへのお土産に鉛筆とか筆箱とか買ってもらったのは、安いからじゃなくて、高いけど、台湾では絶対見ることのないとっても素敵なものだったからだ。

 台湾へ帰る前、母と一緒に家族へのお土産をゲットしにいくというのはいつも一大イベントだった。母と私の旅行かばんの中の隙間以外に、引越しみたいに大きなダンボール箱何箱も、とにかく買えるだけ買ったお土産を詰めるだけ詰めてパンパンにして、空港に総出で迎えにきてくれる親戚たちとみんなで台北の家まで運んで帰った。家電製品、お菓子、洋服、浴衣の寝巻き、ちゃんちゃんこ、インスタント味噌汁、袋麺、下着、靴下、化粧品、文房具。台湾の鉛筆は木のところがボソボソしていたり、芯があんまり色が出なかったり、色が出ないから頑張って力を込めて書くとノートの紙が破れたり(そこに消しゴムを使ったらもっと最悪なことになる)、筆箱なんて、台湾にあるやつが筆箱だとしたら日本のはまるで玉手箱だった。あの当時住んでいたマンションの近くの東急ストアの文房具売り場で、母が食料品など買い物しているのを待っている間、私は何度も何度も、その玉手箱みたいな筆箱のいろんな種類があるのをはじからはじまで眺めて、この新幹線の柄はツーチャンがいいかな、このピンクのうさぎの絵があるのはメイツーが好きそうかな、などと夢見て、母が「お土産どうする?」と聞いてくれたら、この筆箱たちをなんとか買ってもらえるように頑張ろうと心に決めていた。世界にこんなに素敵なものがあるのだから、台湾のいとこたちにもそういうものを持っていてほしかった。もちろん玉手箱のような値段だった。日本は「高い国」で、憧れの対象だったのだから。そうじゃなかったら、母だって私を連れて移民しようだなんて思わなかっただろう。

空が広い。


 日本に戻ってちょうど1週間経ったので、もう勘違いしたウハウハ気分はおさまってきたが、不思議な気分は続いている。こうやってnoteを書いて記録しながら日本と台湾と行ったり来たりしているから今より自覚的になっているんだと思うけど、こんなに日本語しか使わない生活がとても不思議だ。不思議というか、ちょっとどこかむず痒いというか、何か不完全な感じさえする。ここ8年ほど、私はほとんどずっと日本の中で生活して仕事して生きていたのだけど、こんなにも長い間、自分はママと時々電話する時以外、日本語ばかりずーーっと使って生きてきたのか、と改めて振り返ってみると、ちょっとショッキングなくらいだ。だって私はこんなに日本語が上手にならなくたって全然よかったのだ。家族の誰もこんなに日本語を話さない。
 最近は台湾出身だというのをはっきり言うようにしているので、ライブのお客さんとかはじめて知り合う方から時々、
 「日本語お上手ですね。」
 とか、
 「日本人みたいですね。」
 とか言われる。私も、はい、ジャパニーズOKです〜、とかふざけて答えてるし、私をすでに知ってる日本の人たちは、そんなこと今更、というような感じで一緒に笑ってくれるが、よくよく考えてみたら、私は確かに日本語めっちゃお上手なのだった。日本語をあまり話せない母親に育てられて(母は私の子育てをする中で日本語を覚えてきたのであって、若い頃の母は全然今みたいにしゃべれてない)、0〜8歳まで日本語環境になかったという状況で、なおかつ母とも日本語以外の言葉の方が通じ合えたはずの状況で、私って、何がどうしちゃって日本語をこういうレベルにしてきたんだろうと思う。一体誰のために何のために、こんなに日本語を上手にしてきたんだろう。もちろん日本で友人もできたし、今でも友人はいるし、仕事も日本語でしているけど、そのためだけだったらこんなに上手にならなくても、今日本で活躍しているたくさんの日本語が母語でない人たちを見ていればわかるように、もっとゆるやかに上手くらいの日本語で全然やっていける。これまで日本に住んできた間、自分の内側の世界も外の世界も「日本語」ばかりになっていた、とハッと気付いたことは何度かあった。そのどれもが、すぐではなくとも私の人生が大きく変わるきっかけになったけど、今はそういうハッとする気持ちとはまた違って、もっと、じわじわと、心の奥底にショックが広がっていくような気分がある。でもこのショックの水紋みたいなのをこのままじっくり見つめていたら、ああ、もうドバドバドバと何かすごいものが出てきちゃうんだろうなという気配はすぐそこにある。

遠浅の砂浜にうっすら水が張って、雲の合間の太陽が映る。


 とはいえ今日は久しぶりに弾き語りのライブ。いつもどうしようかなあと悩むけどやるしかないからな。昨日一日、久しぶりに日本の家のピアノをたっぷり弾いて、心がほぐれていくようだった。上手くなくていいというのは本当にいい。もちろん上手くてもいい。でも上手くなくたって全然いいんだから。


 


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