「日々の大切な習慣」
私は43歳、昨日とあまり変わらない今日を過ごした。
明日もたぶん今日とあまり変わらない明日を過ごす。
空に例えるなら、1日中真っ白な空
(いつの間にか明るさが減っていって気づいたら夜ってやつ)。
水なら、風ひとつ吹かない沼の表面
(しかも特に澄んでるわけじゃないし魚も見えないってやつ)。
こんな私の日々はさぞ習慣だらけだろう。
「日々の大切な習慣」、これは絶対書くことだらけのはず。
習慣と耳にすると思い浮かぶのは、父方と母方の両方の祖父母たち。みんな長生きだった。
私は彼らの晩年しか知らなくて、彼らは晩年を規則正しいリズムに乗って過ごしていた。
ちょっとしたことが、習慣になると儀式のような重きを得る。
例えば「10時と3時のお茶」は10時と3時にただお茶を飲むのではなくて、「10時と3時のお茶」なのだった。
こうして改めて考えてみると、私はそういう類の習慣を持っていないのかもしれない。
朝食だってあらゆる意味でまちまち。
掃除や洗濯も毎日はしない。
なかなか働き者の日もあれば、どうしようもない怠け者の日もある
(割合は1:3くらい、いや1:4?)。
実は私は変化に富んだ日々を送っているのかもしれない。
それでも真っ白な空の日々だと思うのは、風吹かない沼の日々だと思うのは、おそらく私の選択肢がごく小さな範囲に収まっているからなのだろう。
一見静止しているかのようで、実は微かなぶれが生じている。だけどそれは本当に微かで、ほとんど気づかれることはない。
私の今の日々はそういう状態なのだと思う。
それこそ、道端に落ちていたゴミとか、夕方降った雨の残した灰色のシミとかが仄かなアクセントで、それらひとつひとつに軽く会釈して通りすぎる、
私の今の日々はそういう状態なのだと思う。
私は43歳、触れ幅の大きい生活をしていた時期もある。
この先も、どうなるかは分からない。
今は、昨日と今日があまり変わらない。
明日もたぶんあまり変わらない。
なんとなくそう信じて過ごせる今のこの日々は、正面から見つめるには本当に美しくて尊すぎる。
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