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新型コロナウイルスが変えた「知っている」の概念

新型コロナウイルスの流行以降、私たちはずっと物理的に「日常」の中に生きることを強いられるようになりました。不要不急の外出は控えて極力家の中で過ごし、仕事もオンライン。プライベートとの境目のない毎日に、社会全体にストレスが溜まってきていることを実感しています。
家族以外の人と直接会えず、人間関係に手触りを感じられない。たまには外で、いつもと違う雰囲気の中でおいしいものを食べながら会話を楽しむ時間、今だけ来日している特別な名画や美術品を直に鑑賞する機会、体がしびれるような音響と役者の息遣いや汗まで感じられるようなエンターテインメント。そして旅すること。そんな「非日常」のない生活が大きく変えたもの、それは「知っている」の概念ではないかと思います。


「非日常」とは何か。それは慣れ親しんだいつものテリトリーの外に出て、日常の中では味わうことがない刺激を受ける機会のことだと考えます。

その代表的な体験が旅行です。本の舞台になった街、あの歴史的なイベントが実際に行われた場所、美しいと有名な景色を体感するために、電車で、車で、バスで、飛行機でその場所へ向かう。
それが移動の自粛によってできなくなり、苦肉の策でオンラインでのバーチャルトラベルなるものが誕生しました。「日常」の空間にいながら、ルーブル美術館の館内を周り、コロッセオに立って感傷に浸り、ギリシャの海の青さを体感することができます。
しかしこれで自分はルーブル美術館やコロッセオやエーゲ海を「知っている」と言えるのでしょうか。
確かに、オンラインでの旅行にはバーチャルだからこそ味わえる付加価値もあります。普段ならそこまで接近してみることができないアートを360度好きな角度から間近に眺められたり、ドローンの映像を利用して上空から見下ろし、全体の規模感や立地を知ることもできます。
しかし、それで満足できないから人は旅に出たいと切望するのではないでしょうか。
VRや映像の技術は向上し、4Kや8Kのフルハイビジョンなら驚くほど美しい映像を見ることができますが、それは「見る」行為であって、その場の空気に触れたと言うことはできません。
人が旅行に求めるものは、自分が確かに今「日常」を飛び出して「非日常」へと舞台が切り替わっていっているのだという実感。そしてついにその場所、その空間に実際に立っているのだという体験なのだと思います。
小説や歴史の舞台となった場所で写真を撮り、ガイドブックで見た名所を巡り、行列に並んでご当地グルメを食べるのも、「自分がいる場所はいつもの場所ではなく、特別な場所なのだ」と味わいたいからです。
どれだけ最新の技術で名所にアクセスしたとしても、この場所を「知っている」とはいえないというのはこの体感のなさに起因します。

では、場所ではなく「人」の場合はどうでしょうか。
オンラインでミーティングをし、セミナーに参加し、一緒に講義を受けて議論を交わし、親睦を深めるためにオンラインでお茶会をしたりする。そんな関わりの中で相手の何を知っていれば、この人を「知っている」ことになるのでしょうか。
新型コロナウイルスの流行以前は、「知っている」人とは「会ったことがある」人であり、「同じ空間を共有したことがある」人でした。同じ教室で授業を受けたことがある人、同じ保育園に子供を預けて玄関で挨拶をしたことがある人などは、ほとんど会話をしたことがなくても「知っている人」と認識していました。
しかし、外出制限とソーシャルディスタンスが叫ばれるようになってからというもの、人と会うのはほとんどがオンラインになりました。その結果、仕事で打ち合わせをしたり勉強会やミーティングをするにあたって、参加者の移動時間を考慮する必要がなくなりました。
そのため、北海道や鹿児島や海外に住んでいる人とも毎週のように顔を合わせる機会も増えました。自身は「日常」の空間の中にいて、雨が降ってくれば洗濯物を取り込み、休憩時間にはお湯を沸かしてコーヒーを淹れてくることができる場所にいながら、何百キロと離れた場所にいる人と会話をし、考えを共有することが日常的に行われるようになったわけです。
実際には一度も同じ空間を共有したことはないので、相手がコーヒーにミルクを入れるタイプなのか、貧乏ゆすりのクセはあるのか、香水はつけるのかといったことは当然知りません。
それどころか、身長も体格も、画面から見えない部分はどんな服を着ているのかさえ知らない。バーチャル背景を利用している相手の場合、どんな空間で今会話をしているのか、そこが自宅なのかカフェなのかすらわかりません。
でも、オンラインでしか接したことがなくても、確かに自分はこの人を「知っている」と感じられる相手がいるのです。それはなぜか。
物理的に同じ空間にいないからこそ、気恥ずかしさや抵抗を感じることなく、自分を知ってほしい、わかってほしいと思えるからではないかと考えます。
身体は安心安全な「日常」のテリトリーの中にいて、周りには邪魔するものが少なく、会話のキャッチボールに集中しやすい環境にいる。
試しに相手を自分の心のテリトリーに招き入れてみた結果「ちょっと合わないかな」と思ったとしても、同じ空気の中にいない分傷つきにくいし切り替えやすい。信頼するに足る相手なのか探りながら会話をしていくにつれ、言葉の熱量やちょっとした表情の変化、声色や目の奥の光など、言葉以外の情報も案外画面越しに感じることができます。
そうして確かに今自分は相手と感情を共有していると実感できるのです。
自分は何を大切に思っているのか、なぜこの仕事をしているのか、家族や大切な人に対してどんな思いを抱いているのか。オンラインは、そういった心の扉の奥にある感情を目の前の相手にシェアしていいか、判断するのに向いている環境なのかもしれません。
相手との関わりに手触りはなくても、長い時間向き合い、思考や感情を交わし合うことで心の距離が近づき、相手を「知っている」と思えるのではないでしょうか。


 新型コロナウイルスの流行によって「日常」に閉じ込められても、多くの人と知り合いたい、つながりを持ちたいという感情はむしろ強くなっています。行動を制限されたら、オンラインやソーシャルネットワークを利用し、なんとか人と接点を持ちたいと模索し、網を張り巡らせて心の交流ができる相手を探そうとします。

かつて死刑の次に重い罪は島流し、つまり「孤独」でした。一人になりたくない、孤独を感じたくないというのは人間の本能です。直接会うことができなくなったら別の方法でつながりを保とうとし、そのツールに馴染んでくると、自分がこの人を「知っている」と感じる定義すら変えてしまう。それはひとえに孤独ではないと思いたいからです。


平安の時代には、そのツールは手紙であり歌でした。
直接会ったことはないけれど、こんなに美しい文字を書き、自分の心を動かす歌を作れるこの人はきっと自分と相性がいいに違いない。そう信じて、御簾の奥に入ってくるのを許したのでしょう。
1000年以上の時を経てもそれは変わりません。孤独になりたくない、人と言葉を交わしたいという思いから、きっと自分はこの人とわかりあえると信じて心の扉を開く機会を待っているのです。
新型コロナウイルスは、孤独を感じなくて済むための手段を変え、「知っている」の定義を変えましたが、いつの時代も人は人を求め、わかり合える相手を求める気持ちは変わらないことを改めて知らしめたとも言えるのではないでしょうか。


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