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わたしの #ABCで出会った本 「ジュージュー」著 よしもとばなな(文春文庫)

 2019年の秋、わたしは親友を亡くした。文字にすると嘘みたいだ。今でも心の中でこれまでみたいに彼女に話しかけることがあるし、何ヶ月経っても実感が沸かなくて、彼女がこの世にいないということがまだどういうことなのかよくわからずにいる。時間が経ったら何かわかるものなのか。

 「ジュージュー」は2011年7月に文藝春秋から刊行された。わたしが手にとったのは、その文庫本なわけだけど、2011年3月の東日本大震災の少し前に書かれたもので、その4ヶ月後に発売されたことを知って鳥肌が立った。当時この物語に触れて静まる心があっただろうし、この本が日本で発売されたことに意味を感じずにはいられなかった。主人公の名前はみっちゃん。わたしの親友と同じ愛称。この作品が8年の時を超えて、ふとわたしの手の中にやってきてくれたことも偶然というか必然というかだ。

 わたしは青山ブックセンターでこの小説をたまたま手にとって、“ステーキ・ジュージュー”という看板の上に立つ妙に世界を笑い飛ばしているような女の子の装丁が気になってしまった。調べると朝倉世界一さんの「地獄のサラミちゃん」という漫画の主人公で、物語の中でみっちゃんとママをつなぐとても大切な一冊として登場する。その表紙のサラミちゃんに引き寄せられて気づいたらレジに向かっていた。いわゆるジャケ買い。本屋さんでしばしばやってしまうこの根拠のない行動が、わたしはとても好きだ。

 漫画や映画や音楽には、圧倒的に人と人の心を繋ぐ威力があると思う。敬愛するものを真ん中に置いて共有した好きという気持ちは、その作品の向こうに大切な人を思い出すには十分だった。この物語の中で漫画はみっちゃんを支えるアイテムとしてそっと背中を押して、重要な要素として描かれる。みっちゃんと亡くなったママとを繋ぐ扉として登場する「地獄のサラミちゃん」。

 「ジュージュー」に出てくる登場人物は、みんな大きな喪失感を抱えて生きている。ステーキ屋をしているパパとその娘のみっちゃんは、6年前にママを亡くした。一緒に暮らす進一は、小さい頃に両親に捨てられた過去を持つ。進一の奥さんの夕子さんは背中に大きな一本の刀傷があるし、みっちゃんと新しい恋をする宮坂さんはつい先日お母さんを亡くしたばかり。

 生きていくことは無傷ではいられないし、喪失感や悲しみが突然やってきて自分の中を占領する。世界は急に色をなくして、現実から離れてしまいそうになる。よしもとばななさんの書く文章は、そんな読者のぼんやりした頭にそっと寄り添って、するすると読み手の中に入ってくる。読み終わった頃には世界にピントがあって現実と繋がることができる。「ジュージュー」は悲しみに暮れるときそっと寄り添ってくれるようなそんな作品だ。

 私たちはほんとうは妬みあって、足を引っ張り合って、相手の命を食い尽くして、生き延びていく存在なのかもしれない。でもそれだけではないものに賭けている人たちだって、ほんの少しだけどいるのだ。夕子さんの赤ちゃんを見て、きっとにっこりして何時間でもあやしているだろう自分、もしかしてバカなのかもしれない。でも、命が好きなのだ。その明るさのほうをいつだって見ているのだ。そうやって人間たちはここまで続いて来たんじゃないの? と私はいるのかどうかわからない神様を見上げた。
 でも、そこには、空を見上げるときのくせとして、ただママの笑顔が浮かんできただけだった。

 世の中のスピードに無理して乗っからなくていいんだよ、とにかく体を動かして暮らしていくことをしよう。少しずつ日常が変わっていって新しい命や恋や家族が自分を温めてくれるし、気づいたら自分が誰かを温めることがあるかもしれない。喪失感を抱えながら人は生きていくのだし、よしもとばななさんが「大丈夫だよ」って言ってくれるみたいだったから、安心してわたしはこの物語の中で自分の心をほどくことができた。

どうにもならないことばっかり。/それが人生だ

 悲しみは消えない。消えないのだ。みっちゃんに突然降ってきた言葉みたいに、それでもわたしたちは生きていく。本に出会って救われたりしながら。

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きゅん♡
8
HR14年。働くを考える、働くをよくする仕事。
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