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「水の東西」を教材研究してみた

「鹿おどし」が動いているのを見ると、その愛嬌の中に、なんとなく人生のけだるさのようなものを感じることがある。

 山崎正和「水の東西」の冒頭。洋の東西を問わぬのではなく、「水」をテーマに日本と西洋の文化を比較して問うたもので、「学校の評論で定番教材といえば?」と聞かれれば真っ先に思い浮かぶ教材だと言っても過言ではありません。もちろん評論と言えるのかどうかという疑問はあります。大修館書店のWEB国語教室で筆者が「アレ随筆なんだよ!!!」と述べている点は看過できません。どうもエラーノです。今回はこの教材を研究していきます。


 本教材は二項対立を捉えさせるために構造図を書くとか表にまとめるとか、そういった学習活動(?)のようなものがすぐに思い浮かびます。他の実践を参考にしても大きな差異は見られません。が、どんなに有意義な活動をしたとしても、結局は筆者の言いたいこと(論点)をおさえられなければ意味がありません。

 「まぁそれが難しいんだけどねー」などとあれこれ考え読んでいくうちに最後の一文に出会います。

あの「鹿おどし」は、日本人が水を鑑賞する行為の極致を表す仕掛けだといえるかもしれない。

 「??」頭の中に浮かぶハテナ。「この一文、筆者がこのように述べるのはなぜか?と問われると、簡単には説明できないな」と、僕の左脳は言います。(ええ、それは僕の読解力がう◯ちだからですすいまry)文章が終わって次のページにある「学習のポイント」では、複数の教科書会社がこの部分を設問にして取り上げていることから、読解を深めるうえで重要な箇所なのだと分かります。「そ、そりゃ設問にもなるよなぁ!」となぜか胸をなでおろす私。

 冗談はさておき、この設問は生徒にとっても「どう答えれば良いのかよく分からない」ものになるはずです。その原因としては「鑑賞」「極致」などの語の意味を言語化しづらいこと、係り受けが一目で判断しづらいこと、そもそも設問の意味が分からないこと(何を答えれば良いか分からない)などが挙げられます。実際に解いてみると、本文全体の内容理解(特に冒頭)をふまえたうえで解答することが求められているものだと分かります。こうした意味で、設問と闘う力(?)を磨くために重要な問いである、そんなにおいがプンプンしますね。

 こうした記述問題は、授業のなかで「出題者の意図をきちんと捉えて答える。そのためにまずは設問の意味を考えよ!」という訓練をしておかなければ、試験で出しても、ただなんとなく書くだけ。先に挙げたような学習活動は、書く力をつけるための必要条件ではあっても十分条件だとは言えません。

 ともあれ、第一学習社の設問を引用してみます。

「あの『鹿おどし』は、日本人が水を鑑賞する行為の極致を表す仕掛けだといえるかもしれない。」と言う理由を考えてみよう。

 語の意味は調べることで解決。この文の直前に「そう考えれば」とあることはヒントになる。しかし、この時点ではまだ何をどう書けば良いのか分かりづらい。設問で立ち止まり、何が聞かれているかを考える必要があります。

 まず注目すべきは助詞「」。「あの『鹿おどし』は」と、鹿おどしを話題としていることが分かります。噴水でもなく流れる水でもなく、「鹿おどし」です。そのことが「は」によって強調されます。「で、その鹿おどしがなんなんだよ?」ということで文の続きを読んでいくと「……を表す仕掛けだ」とあり、なるほど何かを表す仕掛けなんだと分かる。さらに「といえるかもしれない」とあり、言い換えのサインが出されています。よって、「鹿おどし(という仕掛け)」=(≒)「日本人が水を鑑賞する行為の極致(を表す)」となることが分かりました。ここで、なぜそう言えるのかという理由は直接は述べられていません。となるとこの設問では「=(≒)が成り立つと(筆者が)言う理由を具体的に説明する」ことが求められているのだと、なーんとなく分かってきます。そのために、両者の特徴をそれぞれ挙げて共通性や因果関係を発見していく必要がある。なんだか数学の問題を解いてるみたいねと僕の左脳は言(ry

 では冒頭もふまえて「鹿おどし」がどんな仕掛けか超ざっくりまとめてみます。

鹿おどし=断続する音の響きによって水の流れを味わわせる仕掛け

また、

日本人が水を鑑賞する行為の極致=自然に流れる水の音(の間隙)を(見ることではなく)聞くことによって、その美しさを感じることができる

となります。共通するのは「音の響きによって」「流れる水の美しさを感じる(させる)」ことだと分かります。まさに両者の相性は抜群だということですね。この二つの要素をふまえて答えれば大きく外れることはないはず。書きます。

 「日本人は自然に流れる水を、見ることではなく聞くことによって、その美しさを心に感じることができる。また、『鹿おどし』は断続する音の響きによって、その間隙に流れるものを心で味わわせるもので、日本人の感性に強く訴えかける仕掛けだと言えるから。」

いささか拙い解答となってしまいました。ちなみに各社の解答は以下のようになっています。

 日本人は水の自然に流れる姿を愛し、流水を「鹿おどし」の音の間隙にさえ感受した。「鹿おどし」は、離れた所で水を鑑賞するという日本人の心 にぴったりの仕掛けだから。(第一学習者)
 日本人は、形のない水が自然に流れる姿を美しいと感じるが、流れる水を直接見るのではなく、間接的に感じることによって心で味わうことができる。「鹿おどし」は断続する音によって、その間隙に流れる水を間接に味わわせる仕掛けであり、日本人の水を鑑賞するありかたとして究極のものだと言えるから。(数研出版)
 日本人にとって、水の美しさは自然に流れる中にある。また、「鹿おどし」は音と音との間に流れるものを間接的に味わわせる。このように「鹿おどし」は、形なきものを恐れない日本人の感性が集約された仕掛けであるから。(大修館書店)

 あなたはどの解答が好みですか?(違)

 さて今回は「水の東西」の教材研究をしていくなかで、自身が引っかかったところは生徒もつまずくところだろうと想定し、設問を分析してみました。実際そうかもしれませんし、そうでないかもしれません。ですが様々な学習活動がなされる一方で、「設問で求められていることを理解してきちんと答える」という地道な、でもかなり大事なことを見逃してこなかったか、そんな思いがあります。でないと「どんだけ読めるようになっても結局書けないじゃんよー」という思いをすることになりかねませんのでね。受験学力的なものも、授業でつけさせる必要があると思うんですよね。その点やはり、予備校の先生方の凄みを感じます。この設問をどこでどう使うのか、はたして使えるのか、これからまた吟味したいと思います。

  


 ――ところで教材研究の途中、思い浮かんできた句がありました。

古池や 蛙飛び込む 水の音(芭蕉)

 蛙が水に飛び込む音を聞いて古池という心の世界を開いたという句(諸説あり)。

 芭蕉は「日本人が水を鑑賞する行為の極致」とは何かを、この時既に知っていたのかもしれませんね。

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