読書感想文

こんばんは。最近ふと、中高時代の社会や国語の先生がこんなnoteなぞ見たらさぞ驚くだろうと思いました。サムです。

どうしてそんな考えが思い浮かんだのか。
なんてったって自分は、自分の感情や思想、考えを表す文章を書くことに対しとんでもない抵抗を示していたクソガキだったから。
夏休みの宿題で全員提出だった読書感想文を提出したのは中1から高2の5年間でたったの一回。高2のときに当時の国語担当教員Y先生が本当にしつこくて、期限を一ヶ月半過ぎてまで口すっぱく追いかけてくれたものだから、嫌になってようやく書いて出した。まるで彼女が悪いかのような言い回しをしたけれど、出していないのだからこちらが100悪い。でも親愛の気持ちを込めてこう書かせてもらう。
勘違いしてもらっては困る。Y先生と自分はとっても仲が良かったのだから。

それに国語が苦手だったわけじゃない。
理系のくせに文理混ざったクラスでまるで対策せずに受けていた現代文の定期テストや模試がほぼ毎回最高点だったり、高2の1月から受けていた共通テストの現代文は模試も含めほぼ9割を切ったことがない。ただ勉強ができたわけじゃなく言語(思考)能力に長けた”頭の良い”生徒だと認識されていたと聞くし、実際にそうだったと思う。

その唯一書いた高2の読書感想文の趣旨はこうだ。

”私は読書感想文を書きたくない。書くことに意味がないのではない、むしろ悪だ”

ちょっと待ってブラウザバックする前にもうすこしだけ聞いてくれ。喧嘩を売っているわけでも厨二病に罹患していたわけでもない。悪いことしてる俺かっこいい反社な俺クール(適当)と自分に酔っていたわけでもない。
自分は本当にマジで大真面目にこれを書いた。
この舐め腐った読書感想文の詳しい内容を今、当時から2年の歳月で言語能力がアップデートされた自分がもう一度説明したい。

ちなみにこれが許されたのは、Y先生が私という生徒に対し真摯でちゃんと内容を読んでくれたのと、彼女にとって自分はただの不真面目な生徒ではなかった(はずだ)からです。多分。「こんなもの書けるんだから、これを期限内に提出してくれたらねぇ」なんていうお褒めの言葉(だと思っている)までいただいてしまった。残念なことになんの本の読書感想文だったのかは全く覚えていない。

文章を書くって諦めることだと思う。
不完全な”言語”というツールでしかなにかを表せないもどかしさが、感想という本当に大事な、精神?こころ?の作る模様やその過程を表現することへの躊躇いに拍車をかけていた。完全な描写って本当に難しい。思うままに完璧に描けないのならば、はなからやりたくない。
言葉には不思議な魔力があって、あるものを”そう”描写してしまうといつのまにか自分にとってもそのものを”そう”認識してしまう。
いつの間にか言葉の方に気持ちが合わせに行ってしまう。
微々たるズレでも、それが許せない。自分の素直な感情を、少しでも勘違いさせてしまうことが嫌。
物事をぴったりと表せる言語的表現なんて存在しないのに、無理矢理似た表現を当てはめ、大事な”自分”の方がそっちに寄ってしまうことが受け付けない。

論理や何かではない心の動きを文章にすることは、そういう妥協だらけだ。一表現一妥協。
なんか語感が良く感じて行ってみたけどやっぱり妥協は非可算なものだし、毎回妥協の程度は違う。
こうやって妥協だらけの細胞で構成された器官はもはや私の気持ちを著したものではない。

なにかを思考しているとき、必ずしも言語をつかっているわけではないと思っていた。なんていえばいいかわからない。
なんていえばいいかわからない。
例えていうと、二言語以上話せる人ならわかると思うのだけれど、日本語で思考する時もあれば英語で思考することもあるというように、別のチャンネル?思考方法?…方法とは違う気がするけれど、とにかく言語を通していない思考状態がある人は少なからずいると思う。
すごく抽象的なイメージの模様が動いているみたいな
スピノザの言う身体の第三種の変様ってやつだと思う。
でも大人になって、これはそんなに多数派ではないことを知った。大抵の人は最初から言語を通じて世界を簡略化して見ているか、言語による認識に満足している。それが悪いわけではないと思う。でも自分とは違うかなって感じ。こういう人もいればこういう人もいる

言葉にするというのはというのはある意味ラベリングと同じだ。
お察しの通り、いまここでラベリングという言葉はネガティブな意味で使っている。自分はラベリングが大嫌い。
もちろんその便利さは否めない。
例えば人間の特性として”〇〇な人”という分類があるとする。すると、その〇〇に当てはまる人(Aさんとする)は自分を誰か(Bさんとする)に説明する時に”私は〇〇です”と言うことができ、説明が容易になる。それは”〇〇”についてお互いに知っていると言うことが前提である。
しかし、実際にそうはいかない。〇〇に対する認識や理解というのは、かなり細かいところでそれぞれ人によって異なる。ある事象に着いてまるで同じ解釈・理解を全ての人間ができるわけがない。
よって、Aさんが説明したつもりでいた〇〇は、Bさんの中で確立された〇〇に置き換わり、認識の相違が生まれる。
〇〇を”フェミニスト”等に置き換えてみるとわかりやすいのではなかろうか。

それにしてもみんな言語を過信しすぎ。人間が作ったツールなんだから不完全で当たり前なんだよなんで気づかなかったんだろう。傲慢だよねえ
いや、そんなのみんなわかっていて実用性をとったのか。大人になるってそういうこと?

これを読んでいるひとたちの中に、国語の先生ないし小学生の子供や兄弟をもつ方がいるのであれば、こういう子供もいることを知って欲しい。
書けない理由書かない理由を言い渋っているのは、こんなようなことをまだ言語で表せないからかもしれない。
いや、なんで書かないのかわかっても、書かせる方法がないのだからどうしようもないか。

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