青くて痛い

こんばんは、サムです

最近、似たような面というか過去というかそんなようなものを持った人間と対話する場面がありました。そのときに高校時代の話みたいな、大学に入る前どんなクソガキだったかみたいな話に及びまして、色々遡って喋っていたんです。それを思い出して携帯を見ていたら、機種変更する前によく使っていた日記アプリというかメモアプリというかそういうアプリに、今たまにnoteやInstagramに書いているような詩ではないけれど(主にちょっと生きるのが面倒・嫌になって)ちょっと言葉遊びしたくなった時やなんか言葉が出てきた時に色々と書いていたのがでてきたので、見返していました。

なんかたまにいいこと言ってんなあ、と思いますが基本的にとても青くて痛いです。正直1年も経っていないものでもそう思うのだから本当にきついです。でもそれをなかったことにしたくはないのでそんなことを思っていたその当時の自分とちゃんと向き合ってあげたい。お節介と君はいうかもしれないけれど。お節介だし向き合ってあげなくてもいいとも思っているけれど。向き合わなくてもいいけどその地点の自分は存在したうえで今の自分がいるわけなので。

この青くて痛いって言葉は先ほどの人間との対話中に出てきた言葉なんですけど、我々二人とも先生には好かれるタイプのクソガキだったんです。先生たちにとって私たちの何がそんなに構ってやりたくなる、というかかわいい(自分で言うのも恥ずかしいけれど)要素だったのかという話で、結論先生たちからみて青くて痛いからなんじゃないって話になりました。「でもこれをわかってるのはイタくないね」ってあの人は言ったけれど、自分を青くて痛かったって形容する時点で自分のことをだいぶ痛い人間だなと思います。あいたたた。

あと、この人の他にも、大学に入ってから”自分と似ている”人間とだいぶ出会いました。まあ学科が学科なので多少は似た部分を持つ人間と出会いやすいというのはあるかもしれないですが。しかしたくさんの”自分と似ている(と思った)人間”と話しているうちに、やっぱりその人たち同士を比較すると全然違う人間じゃないですか。当たり前だけど。
でも、この人とこの人はこう違うけれど、でもこの人もこの人も私とは似ている、と言う感じで自分の新たな面ではないですが、狭い陸地からはじめて、地図の記されている部分を少しずつ広げていくような、そういうような感覚で今までよりも解像度をあげて見えてきた面がたくさんあります。前まで無理やり一言で描写していたような自分の一面だと思っていた面を構成している中身同士が少し違うだとか一枚だと思っていたものが2枚に分かれていたとかいうことが、他人を見ることで自己の再確認できたみたいな。ちょっと違うし無理やりだな、やっぱり言葉は難しい。けど自分にとって見えてきた自分を地図に例えるのはちょっと案外うまい例えかもしれない。誰かと対比してこれは自分にはない、と思ったところは海として塗り潰せばいいし急な飛地もある。自分を一言では表せなくても、地図みたいなイメージで自分の中で持っておくにはきっと便利なんじゃないかと思います。
ちなみにこの段落冒頭で言った”多少は似た部分を持つ人間と出会いやすい”というところの意味する”似た部分”は圧倒的に”〇〇じゃないところ”と形容されるのが多い。だから具体的な何かが似ているとかではない。積極的な共通点ではなく、消極的な共通点だ。うまく言い表せたかはわからないがとりあえずこういうことにしておこうと思う。

さっきのメモアプリにあった文章は、気が向いたりあるいはいつかのタイミングで当時の自分と同じ気持ちになったり何か言いたくなったりしたら後悔するかもしれない。
おやすみなさい。Have a nice dream.

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