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深夜ラジオのノスタルジー

普段あまり芸能関連のことについて書くことはないんだけど、わたしは中学生からこれまで深夜AMラジオ大好きマンとして育ったので、今回の岡村さんの件に関してはいくつか思うところがあった。深夜ラジオ文化のパーソナリティーとリスナーの高齢化や、それに伴う時代へのそぐわなさ、インターネットとの相性など。そのうえで、昨日のANN(2020年4月30日回)の生放送を聞いて、考えたことなどを個人的にまとめておこうと思います。

前提として、わたしは岡村さんの最初の発言を擁護するつもりはまったくなくて、ご本人もそれに関して昨夜の放送で正式に謝罪されたので、今さらその発言自体の是非を取り沙汰するものではありません。そしてまた、以下に書くことは誰かに対する意見でも議論でも何でもなく、単に自分が今こう思ったよということの覚え書きです。エッセイです。

なお、何について言及しているか不明な方は、以下すべて読まずともかまいません。そもそも、今から興味を持って検索しても元の放送(4月23日回)のradikoのタイムフリー聴取期限は過ぎているし、不完全なテキストベースの書き起こしやゴシップまがいのネットニュースにしかあたれないので…。

岡村さんのオールナイトニッポン

実はわたしはもうずいぶん前から岡村さんのANNを生放送では聴いていなくて、たまに時間を持て余したときにradikoで直近の回を聴く、くらいの感じでした。ここ何年かの木曜の深夜は、どちらかというと裏のTBSのおぎやはぎを選びがちだった。それでも、もともとのナインティナインのANNの比較的熱心なリスナーであったので、勝手に自分にとってのホームのひとつのようには思っていた。

それだけに、Twitterかなにかで今回の一報に触れ、本放送タイムフリーを聴きに行ったとき「まあ岡村さんならこんなこと言うよね」というのと同時に、「切り取るとこそこ?」とも思った。というのも、ナイナイANNはもうずっと前から、"岡村おじいちゃん"の偏見や時代錯誤のおかしさをトークの主要コンテンツとして扱う番組だったから。
同時に、比較的どぎついタイプの下ネタを積極的に扱う面もあって、なかにはかつての名コーナー「ジャネット」のように、ともすればシンプル人権侵害のような際どいものもたくさんあった。近年でも、毎年クリスマスの出川さんゲスト回で敢えて無様にふるまう岡村さんは、下衆なところとジェントルなところが最高に輝いていて、それがリスナーには恒例でした。

今回、敢えてあの点がだけが切り取られたのは、時節柄あまりに不謹慎でセンセーショナルだったというところと、一方で、"テレビのゴールデンタイムの岡村さん"の無害なパブリック・イメージとの著しい世間的なズレがあったようにも思います。

「深夜ラジオ文化」とはどういうものか

わたしは伊集院光さんの大ファンで、90年代のOh!デカ時代を経て、もう20年以上TBSの深夜番組を聴き続けています。生放送で。そのなかで、同時に宮川賢さんだったり、電気グルーヴだったり、ナイナイだったり、オードリー、アンタッチャブル、雨上がり、おぎやはぎと、ひとつの番組だけではなく、深夜ラジオという笑いのカルチャー自体に支えられて大人になってきたみたいなところがある。

言うまでもないことですが、かつてはラジオって、パーソナリティーとリスナーたちだけのすごくパーソナルな空間だったのです。真夜中、決まった時間に集まって、気の向くままにくだらないお喋りをして、気が済んだらまためいめい日常に戻っていく。今みたいにインターネットを通じてハッシュタグでリスナー同士が同じ時間を共有するわけではないから、それは極めて個人的な体験で、番組が終わったら、あるいは自分が途中で寝てしまったら、それはどこにも残らないし、誰にも伝わらないものでした(だから、同級生のなかにリスナー仲間を見つけたときの感覚は特別なものだった)。

ラジオの向こうで喋っていたパーソナリティーたちは、当時の自分たちよりちょっと年上の兄貴のような存在。彼らの日常を通して語られる世界は、遠いところの話のようでいて、時にひどく身近で下世話なようにも感じられ、そのことへの共感や、あるいは憧れを、泣き笑いのなかで育てていった。

そしてまた、ラジオのリスナーたちはみんな、それぞれの日常生活に何かしらの満たされなさを抱えていたからこそ、ラジオという「場」へ集まっていたようなところがありました。それは、要領よく生きられない悩みだったり、クラスのジョックに対する僻みだったり、勉強や恋愛に関するつまづきや失敗だったり。ラジオはダメ人間の拠りどころだった。

そのなかでラジオのパーソナリティーというのは、裏も表もなく、恥ずかしい失態もぶざまな日常もなんでも赤裸々に話してくれる兄貴であり、学校や会社や世間をガチガチに固めている「常識」というフィルターをとっぱらって、一切のタブーなく、不条理を笑い飛ばしてくれる存在だったわけです。

深夜ラジオの変質とインターネット

あれから20数年。自分にとって意外だったのは、変わったことよりも、むしろ変わらなかったことの多さです。もちろん、たくさんの深夜番組が始まっては終わっていったんだけど、伊集院さんにしろナイナイにしろ、当時の深夜ラジオを引っ張っていたパーソナリティーは今も変わらず現役で、帯番組を担当するのも同じようなキャリアの方々ですよね。20代とかのよく分からない新人が局に引き抜かれて、いきなり深夜の冠番組を始めるなんてほぼ聞かない。

そりゃ、伊集院さんとかナイナイにずっと夜のラジオを続けてほしいとは思っていたけれど、彼らが50歳前後になってもほとんど同じフォーマットで番組が続いているとは思わなかったし、なによりわたし自身が聴き続けているとは思っていなかった。当然、パーソナリティーもリスナーも高齢化が進んでしまい、文化的な新陳代謝が行われない状況に陥っているのは想像に難くないわけです。

加えて、インターネットとスマートフォンの普及によって、深夜ラジオのカルチャーは大きく変質してしまった。先に触れたとおり、ハッシュタグはラジオを一対一の個人的な体験ではなくしてしまったし、radikoのタイムフリーは深夜放送をその夜限りの内緒話でなくしてしまった。さらには、いわゆる「ラジオ書き起こしブログ」みたいなものまで登場してしまって、パーソナリティーの珠玉の話芸から"声音"や"間"といった表現の大部分を取り払い、さらには文脈までも変えうる編集を許してしまうことになった。

伊集院さんが、かつてTBS新社屋のエレベーターホールで原付を爆走させたのも、社長室で好き勝手(穏当な表現)したのも、それがその夜ラジオを聴いていたリスナーだけの秘密の内緒話だったから成立したのであって、それが「この人こんなことしてました」といって白日の下で曝されるような時代になってしまっては、少なくともそういった形ではもう、続けていけないのだ(なので、伊集院さんは今はそういう類の企画はやっていない)。

矢部さんの「ツッコミ」の意義

で、昨日の晩、岡村さんがどんな言葉で話すのかと思って1時にラジオを付けたんです。冒頭の謝罪に続いて、まあ落ち込んだテンションで、一言一言絞り出すようにして話すんですね。でもう、聴いてて辛くなってしまって。岡村さんもうこのままラジオ辞めてしまうのかなとも思ったし、それ以前に今夜の2時間の番組さえも続けていけないのではとも思った。

そこへ登場した矢部さん。登場すること自体思ってもみなくて驚いたんだけど、彼が語り出したことというのが、コンプラがどうとか深夜ラジオがどうとかではなく、純粋に岡村さんの人間性のうち誤った部分を滔々と正す、というものだったのです。これって、相方の間違いを指摘するという、原義的な意味での「ツッコミ」の役割そのものだということに気づいて、いま深夜ラジオのお笑い史上…少なくともナインティナインのコンビ史上、すごいものを聴いているなと思ってしまいました。

矢部さんが具体的に何を話したかというのは、書いてしまうとそれこそ書き起こしになってしまうので書きません(というか一週間はradikoタイムフリーで聴けるので最初から最後まで聴いてほしい)。わたしが感じたのは、岡村さんへの指摘を通した、ANNのスタッフやリスナーに対する認識のアップデートへの、優しくも厳しい要請でした。

かつての深夜ラジオを愛する身としては、パーソナリティーが社会的に品行方正であることなんか端から全然求めていないのです。その人の恥ずかしい過去やあけすけな人格がさらけ出されていたからこそ、リスナー自身もまたダメ人間であることを許されてきた。特に、番組中にツッコミ役がいない一人喋りの岡村さんに関しては、多少過激な偏見や世間一般との認識のズレがあってこそ、「またおじいちゃんそんなこと言って」というような、いわばリスナーからのツッコミが構造として成立していたところもあった。

今回矢部さんがそれを甘え、と断じたことは、岡村さんのみならず、暗にスタッフやリスナーまでも共犯関係にあることを示唆するものでした。わたしは同時に、深夜ラジオ文化…言い換えれば、電波を挟んだ両者の古き良き共犯関係の時代とも言うべきものが、役割のうえでは、実はもうとっくに失われて久しいものなのかもしれない、とも感じてしまった。

ナイナイの2人による「わーわー言うとります」「お時間です」「「さようなら」」というエンディングでのお馴染みの、そしてすごく久しぶりの掛け合いが、余計にそんなノスタルジーを誘ったのでした。

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