【感想】ダメージド・グッズ

ニンジャスレイヤー第4部エピソード『ダメージド・グッズ』が昨晩完結したので、感想を書いておきます。4部エピのまとまった感想をブログなりnoteなりに書くのは初めてですね。個人的にとても響く話でしたので、書かずにはいられないというか。

「マイノリティ」の物語

自我に目覚めたオイランドロイド――「ウキヨ」と彼らを取り巻く問題を、本編で初めて本格的に扱った作品でした。これに先立って、プラスでは「シャード・オブ・マッポーカリプス(5):ウキヨについて」というテキストが去年の11月に公開されていますが、このなかで触れられていた2039年の「オイランドロイド戦争」がどういう事件だったのかも、具体的に描写されました。

本作で、ウキヨポリスの住人たちは明確に社会的マイノリティ存在として描かれています。キュナカとリンゴアメの一時の関係性はLGBTのそれを、カブシが足を引きずる描写は身体障碍者のそれを連想させる。彼らは自ら望んでウキヨになったのではなく、たまたま(happen to be)そのような環境に生まれついたのです。

なおかつ、リンゴアメ、キュナカ、センダイユメコ、コトブキという4人のウキヨに関しても、彼らの生まれ育った環境はまちまちです。苛烈な虐待を受けたと思しきキュナカが人間に憎悪を燃やす一方で、運よく実際には誰からも直接的な暴力を受けなかったコトブキは人間に対しても理解を示している。彼らの認識は一枚岩なのではなくて、グラデーションのようになっているわけです。

この話、まず導入部分の殺伐とした描写からして好きなのですが、序盤で印象的だったのは、リンゴアメが殺す対象を選別しているところです。かつての主人は容赦なく殺し、その妻は生かす。怒りをぶつける対象が無差別ではなく、エゴに基づいているというところがまさしく自我の発露によるもので、ただの暴走オイランドロイドとは違う。もっと言うと、この過程ってフジキドがニンジャスレイヤーとして長い苦闘を経て獲得したエゴとも比較できますね。

コトブキがIRCで調べてウキヨのコミュニティを見つけ出すくだりは、共感できるものがありました。というのも、自分も高校時代(1997年とかの話)にインターネットに出会って、「テクノ」というものすごくマイナーな音楽趣味のコミュニティの中に入っていって、初めてオフ会に参加したときのことを思い出したから。当時は本当に情報に飢えていて、周りには誰も話題が通じる友人がいなかっただけに、同じ趣味の人がこんなにもいるというのは衝撃だった。何をおいてもそこへ行ってみたいというコトブキちゃんの情熱は本当に分かる。

また、本作のタイトルとも関連してきますが、私は特にキュナカ=サンに関する描写が好きなのです。

そのオイランドロイドは左目付近が抉れ、損傷している。腕も傷が目立つし、腿のホルスターには拳銃だ。なんて醜い。シノバキは呆然とする。
「この傷は?」リンゴアメはキュナカの顔に触れた。「戦いで、ついた」キュナカはリンゴアメの手を撫でた。「治さないの?」「イクサ化粧みたいなものさ」キュナカは微笑んだ。

おそらくは治せるのに治さない。傷のあるもの、不完全な自分をあるがままに受け入れるというのは、マイノリティを自覚する者にとっては(もしかしたらそうでなくとも)自己肯定に必要な一歩だと思うのですよね。もっとも、それとは別に、単純に不完全だったり多少壊れているようなもののほうが好きという自分の好みもありますが。

ちなみに、Damaged GoodsというのはUKのパンクなどの老舗レーベルの名前なのだそうです。

サザンクラウド、弱者を攻撃するもの

サザンクラウド=サン、こう言ってはなんですが、いい悪役でしたね!他のニンジャと群れるでもなく、モータルの傭兵軍団を指揮して、俗っぽい利益とは別のところで己の信念のために戦うという、少し珍しいニンジャではありました(とはいえ、モータルを率いて欲望の向くままに殺すというのはオーソドックスな古典的ニンジャ像に即してもいる)。

ボンド&モーゼズ氏の意図するところかどうかは分かりませんが、やはり彼の独善的な振る舞いの描写を読んでいると、どうしてもオタクコンテンツなどのマイノリティをターゲットにした過剰な表現規制がモチーフになっているのかな、という気がしてしまいます。おそらくは私怨や復讐とか以上に、「(自分が)気に入らないから絶滅させたい」という動機がね。でありながら彼自身、身体の6割をサイバネ化しているというのもまた何とも言えないアワレを誘います。

ウキヨを「絶滅させたい」と言って憚らないサザンクラウドはまた、「全ニンジャ殺すべし」と宣言するニンジャスレイヤーとも、一見相似形を成しているように見えます。ただし、この二者が大きく違うのは、ウキヨは社会に迫害される側(弱者)であって、ニンジャは決して弱者ではないという点。

確かにカラテではモータルを凌駕し、殺しも躊躇わないウキヨですが、少なくともこのお話の時点では、都市を追い出され郊外にエクソダスを求めるほかない、いわば難民です。彼らは人に害を為すかもしれないけれども、それは彼ら自身の最低限の生きる権利を守るためであって、他者に支配や従属を強いるためではない(無論、中には暴力によって支配の側に取り入るウキヨも居るのでしょう)。

他方、ニンジャスレイヤーが全ニンジャ殺すべしと断じる行為も十分に独善的と言えるのですが、そこに堕してはならないという先代の教えこそが、あの終盤にシキベ=サンがたどたどしく言伝としてマスラダに受け渡したインストラクションなわけです。一話のなかにこれがいっぺんに登場するところが、このエピソードの面白いところだと思うのです。

センダイユメコの苦悩

ところで、後半部冒頭のウキヨポリスの女王・センダイユメコが苦悩するシーンが私には印象的でした。あのシーンがあるとないとでは、感想はかなり変わったと思います。女王は著しく人間離れした身体を持っていながら、冷たい支配幻想やカルト教祖的な妄執に囚われていたのではなく、憧れのタヤノモイコを追いかける自分と、ウキヨを導くリーダーとしての自分のギャップに悩んでいた。
序盤のキュナカやシンジツの発言、また捕虜を容赦なく処刑する様子から、ウキヨたちが人間に反旗を翻す反社会的集団(ある種典型的なロボット反乱もの)であるかのような印象は、ここで意外な形で覆されるわけです。

意外といえば、カブシ=サン。実況タイムラインでは、ウキヨのなかにただ一人紛れ込んだこの男が何者なのか、はじめは訝しむ声がわりとありました。私もそうで、ことによるとウキヨを裏から操っているのがカブシなのではないか、とか。でも今にして思うと、これって初めからそのようにミスリードするための巧妙なトリックだったのですよね。

そのセンダイユメコとカブシの因縁は、具体的には描写されることなく、想像の余地を残すものでした。それでも最後にカブシが取った行動は、彼がなにか別の邪な目的でこの立場にいたのではないことを証明するのには十分だったと思います。
人間と共存できないウキヨの「人生」を一手に引き受け、模索し続けた末の女王の苦悩でしたが、センダイユメコとカブシの間においては、この二者の理想的な関係は既に実現していたのです。

ニンジャスレイヤーのとった行動

ニンジャスレイヤーことマスラダにとっては、これがおそらく、サツガイに関係しないニンジャに対して自ら進んで殺忍行為を行った初めての例ではないかと思います。サザンクラウドとの接触から、コトブキの身に危害が及ぶことを察したときのリアクションには、正直なところ少し驚きました。彼女のことをそんなに気にしていたんだ…という。

でも、これこそがマスラダがマスラダである所以というか、彼なりの善性の表れなんでしょうね。私が第4部で、初めてこのニンジャスレイヤーは先代と違うぞ、と強く感じたのは、第2話「マーセナリイ・マージナル」の最後のシーンにおける行動とそのセリフでした。

「ナンデ」ムキョウは思わず問うた。ニンジャスレイヤーは肩を揺らし、荒い息を吐きながら、壁に背をもたせた。「行けよ。試験なんだろ」言葉を切り、付け加える。「……悪かった」

フジキドは良くも悪くも、成り行きや行きがかり上モータルの命を救うというようなことはあっても、そのためだけに積極的に助けに向かうというようなヒーロー性は表に出していませんでした。ましてや、騒動に巻き込んだことを口に出して「謝る」ようなことは!ニンジャスレイヤーとなって日が浅い第1部の序盤のことを思うと、尚更そう感じます。

たとえ一時であっても行動を共にしたコトブキの身を案じる、あるいはもしかしたら自ら望まなくともそうせずにはいられないというパーソナリティこそが、(エゴのためにカラテを振るうことに最後の最後まで苦悩し続けたフジキドとは違う)マスラダという青年なのかもしれません。

移動の車中でも、マスラダはシキベに対して警戒心というか敵意を剥き出しにしていました。シキベや三本足カラスの素性をよく知っている読者からすると、この期に及んで…とも思わなくもないわけですが、前回のピザ・タキでのアモクウェイブの一件を思えば納得できる。あれは彼の不注意でアジトを特定され、タキやコトブキ、無関係のモータルを危険に晒してしまったわけで、彼なりに、相当の後悔と反省があったのかもしれない。

そして、この第7話に至って気づいたことですが、第4部はニンジャスレイヤーの主観的な描写がひどく少ないですよね。一貫して主人公として描かれているにも関わらず、苦悩や迷いがどこか「外側から」描かれている。おそらく、ガーランドから一時退避するシーンでも、コトブキたった一人を救うために北へ向かうシーンでも、ニューロンの内側ではナラクとの対話と戦いが相当にあったと思うのです。これは、ボンド&モーゼズ氏がフジキドの時と区別して、意図してそのようにしている気がするのですが、どうでしょうか…。

それにしても、フジキドからの言伝のシーンは何とも胸が熱くなりました!ドラゴン・ゲンドーソー=センセイから受け継いだインストラクションを、いずれフジキドが次代に受け渡す場面があるのではとは思っていましたが、意外に早く、しかもこういう形になるとは。
マスラダは、それを素直に受け入れることができるのか、あるいは…。

ウキヨと人間とニンジャの「違い」

ここまで、第4部エピソードで取り上げられるテーマとして多いのは「ミームの変質」、もうひとつは「コミュニケーションと相互理解」にまつわる諸問題のように感じています(全体を読んでのぼんやりとした印象なので、必ずしも当たっているとは思いませんけれども)。

結局のところ、コトブキはウキヨポリスの住人とは相容れなかった。その過程であのような衝突が起きてしまったのは彼女にとっては意外だったのかもしれないけど、生まれついた環境の違いによるああいった認識の齟齬は、ウキヨを例に挙げるまでもなく、実際の我々の社会でも往々にしてあるわけですよね。不幸は平等じゃない…悲しいことに。

そしてまた人間にだって、ウキヨを目の敵にしてこれを迫害する者もいれば、カブシのような者もいる。身体の大半をサイバネ化した者もいれば、ニューロンチップ再生者もいる。殺すニンジャもいれば、救うニンジャもいる。彼らに本当の意味で壁を挟んで争うほどの違いがあったのかというと、よく分かりません。少なくとも二項対立のような単純な構造ではなくて、めちゃくちゃに多彩なグラデーションなのでしょう。

分かり合おうとするのも、断絶して閉じこもるのも共に茨の道となると、特に第三部ラストで社会の多様性を選び取ったネオサイタマというケオスにおいて、相互理解というのは果てしなく難しく重いテーマなのだなと感じます。潔くもどこか物悲しいこのエピソードの幕切れも、なんだかすごくニンジャスレイヤーらしいなと思いました。

「ダメージド・グッズ」 - ニンジャスレイヤー Wiki* 

第7話【ダメージド・グッズ】前編|ダイハードテイルズ

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