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文系か理数系かではない。サイエンスとリベラルアーツこそが価値を創造する

人類が道具をはじめてもった時から現在まで「価値の創造」が進歩の原動力だ。価値とは、それを受け取る人にとってなんらかのプラスをもたらすもの。よりよいサービスや新しい機能をもったモノなどだ。それを創ること、つまりイノベーションこそが、経済のエンジンだ。

価値を生み出すためには次の二つのスキルを使いこなすことが必要。1) 常識を疑い、新しいことを試し、人類に新たな知識をもたらすサイエンス、2) 異なる意見や考えを融合し、一人ではできないアイデアを生み出すリベラルアーツ。どちらか一方だけではダメだ。

残念ながら、日本が明治時代に主に英国から教育制度を輸入した際、サイエンスは理数系科目、リベラルアーツは文系科目という単なる学問の枠組みとして解釈され、その二つをわけてしまった。しかもそれぞれの分野の根幹の哲学を置き去りにしてしまった。日本特有の文系・理数系という分け方の弊害は今日まで引きずられている。

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様々な国籍の人に囲まれて過ごし、日本を外から見ている私には、この文系・理数系に分離した教育こそが、日本経済の30年にわたる停滞の根本原因だとひしひしと感じる。

では私たちは、どうやってリベラルアーツとサイエンスを習得すればいいのか。「そもそもリベラルアーツとサイエンスって何?」という疑問にも答えたつもりだ。

「価値の創造」についてしっかりと考えてみる

「私たちは常に改良を重ね、コストダウンに工夫をこらすことによって、価値を創造している」と言うかもしれない。でもそれは競合相手とくらべて「どんぐりの背比べ」ということはないだろうか。画期的なアイデアがないから値下げするしかない。

どれだけCDの売り場を魅力的なものにしても、iTunesの登場によってほとんどのレコード店やCDをプレス製造していた会社は廃業となった。多くの書店はアマゾンに駆逐された。

同じ価値をより良いものにして提供し続けることと、価値を「創造」することは大きく異なる。ではiTunesやアマゾンなどの新しいアイデアはどうやって生まれるのだろうか。

サイエンスが価値ある種を見つけ、芽を出させる

サイエンスは未知の領域から知識を得る営み。1) 無知を認識し、2) 観察やトライ・アンド・エラーで対象を探究し、3) 実験による仮説の検証(支持か棄却か)を行い、4) 数学を用いた表現を試みることで、5) 対象の因果関係や原理を明らかにする。

つまり、常識を疑うこと。持っている知識を使うばかりでなく、知らない部分に気づき、知ろうとするためにひたすら実験と数学を使って試行錯誤を繰り返すこと。しかしむやみやたらにではない。ちゃんと理論的に試行錯誤することだ。

サイエンスは物理学や化学の専売特許ではない。政治や社会の仕組みなどの問題を解決するときにも必須の考え方であり、行動パターンである。万人に必要なのだ。

しかし、一人の発見やアイデアが価値の創造につながることは、現代ではほとんどあり得ない。ここに人々の知恵を結集するリベラルアーツが必要となる。

関連ノート:

リベラルアーツがアイデアを昇華させる

論理的に考え、意見を交換することで世の中の問題を解決するために必要な理解力や思考力、コミュニケーション能力を養う営み。すべては先人が積み上げてきた英知の上に成り立つ。哲学、論理学、言語学、文学、歴史、政治科学、社会学、心理学などを網羅するのであって、これらから一つを選んで専門的にマスターすることではない。

元来は、奴隷ではなく市民として生きていくための必須のスキルであった。古代ギリシャの市民と奴隷の区分は、

奴隷:与えられた仕事を言われた通りにこなす
市民:自分の考えを表明し、ディベートに参加するすることで社会の進歩に貢献する
(私の場合、仕事が辛かったときの自分のマインドセットは奴隷になっていたと言える。あなたはどうだろうか?)

「市民」に必要な能力は、相手の意見を論破できる論理思考、全く発想の異なるアイデアを理解し、融合することで、人の集団をまとめ、より価値のあるアイデアに昇華させることだ。

日本の教育の問題点

残念ながら日本の教育ではサイエンスもリベラルアーツも教えられていない。欠けている重要なファクターを列挙する。

1) 科学リテラシーは大学4年次に研究室に配属され、自分で研究をやるようになって、自分で気づき、身に付けるかどうかだ。積極的に教育として制度化しているところはあるのだろうか?学校の理科は大学3年次までを含め、過去の知識を習得することのみをやっている。これは基礎知識としては意味があるが、サイエンスそのものとはまったく逆のやり方であることを、教師も教育委員会も文科省も理解していないか見過ごしている。

2) 自分の考えを客観的に分析し、否定してみてその論理を試すcritical thinking (批判的思考)のトレーニング。
3) プレゼンテーションや作文で、自分の考えとその根拠を主張するスキル

大学で卒業論文を書くときになってはじめてこれらの必要性に迫られる。

3) 異なる意見を戦わせ、融合し、1+1>2を生み出すスキル。意見が違えば多数決でA or Bを選ぶことが正しいと習った。民主主義を履き違えた教育だ。

サイエンスもリベラルアーツも、万人に必要なスキルだ。文系と理数系に分け、しかもサイエンスとリベラルアーツの根幹を教えていない、今の教育制度は問題だらけである。これが日本で「価値の創造」が低迷し、30年間経済が停滞し続けている要因だ。

リベラルアーツを身につける方法

哲学、論理学、言語学、文学、歴史、政治科学、社会学、心理学などを、広く深く学ぶこと。読書がメインであって構わない。ただ単に読むだけではない。理解し、自分のモノとするためには、読書ノートを作ったり、本にたくさんの書き込みやハイライトマーカーを使うくらいで良い。一文や一冊ではダメ。さまざまな人が書いたものを幅広く吸収することだ。

そして、自分の意見を論理立てて説明する訓練を積み重ねる。ブログを書いて公開することは、手っ取り早い練習台である。散文のようなものでは意味がない。短くても良いから論文を書くのだ。

卒業論文がないゼミの学生は、卒論がないと喜んでいる場合ではなく、自分から進んで論文を書くべきだ。別記事でも触れた通り、大学の学士号とは本来、世の中に価値のある論文が認められた人に与えられるものなのだ。

そしてディベートすること。議論することだ。ゼミの中での議論でも良い。指導教官とも対等に議論できなければならない。そういう環境にない社会人などは、仕事の中で、論理的にビジネスのアイデアなどをまとめ、それに対する疑問や反論、別のアイデアなどをうまくまとめる議論の中で、実践的に訓練できるはずだ。自分が推進するアイデアなら、上司とも対等に議論できなければならないのは言うまでもない。

私は文系の科目をずっと避けてきた。しかし社会人になって、社会の仕組みや人の行動に興味を持ち始めて、さまざまな分野を自ら学ぶようになった。非常に多くの本から学び、実践で試すことの繰り返しだ。自分の意見を説明することと、人と意見を戦わせ、まとめることは中学生の頃からブラスバンドとオーケストラでのリーダーとして、周りから叩かれながらスキルを磨いてきた。時間はかかる。生身の人間を相手にしての実践あるのみだ。

サイエンスを身につける方法

とにかく何でもいいから疑問や興味を持つこと。そしてそれを理解するために色々と手を動かし、観察・試行錯誤すること。これに尽きる。

今は大概のことはインターネットで調べればわかってしまう。でもそれではダメ。先人の知識を授かっただけだからだ。自分で解明しようとする観察と試行錯誤が大事なのだ。

私は子どもの頃、山の中に見つけた洞穴が戦時中の防空壕なのか知りたくて探検をしたり、多くの機械を分解した。どうやって動いているのか知りたかったからだ。そこから様々なものを修理できるスキルを身につけた。

この行動パターンは今でも変わらない。だから研究開発においても、誰もが解決できなかった技術的問題を私が解決してきたし、音楽関係のNPOを立ち上げ、そこでCEOをやっていた時は、とにかく何でも初めてだからやってみるしかない。やってみてうまくいかなかったら、その場で対処することの繰り返しであった。そうして新しいビジネスモデルが少しづつ出来上がり、軌道に乗ったから、私が引退しても皆がビジネスを続けてくれている。

もちろん、世界の誰もが知らないことに興味や疑問を持つことが最も望ましい。それは博士論文になり得るし、ビジネスとして価値があるかもしれない。つまりそれで食っていけるかもしれないからだ。

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Picture at the top: "Cambridge Public Library" by Alina Chan 

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