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第20節

 抱月は後には全く小説を書かなかったけれど、その時分に十篇や十五篇の作を公にした。一葉や緑雨と違うていたけれども、文体は雅俗折衷体で、何処か近松の感化を多分に受けたようなところがあった。『夫婦波』などという心中を書いたもののあったのを私は覚えている。
 かれは尠くともその時代においての新しいチャンピヨンをもって目ざされた一人であった。同年に出た宙外の方が世間的にはもててもいたし、小説壇にも認められていたけれども、心ある若い人達は、誰でも抱月の方に重きを置いた。かれの書いたものはいかにも真面目であった。そしてまたいかにもロマンチツクであった。一種、恋にあくがれる情操というようなものを持っていて、今日考えて見ると、あの晩年の実行は、すでにその頃の作の中にほのかにあらわれているということができた。宙外とかれとでは、金と銀との相違があるように誰にも言われた。
 透谷や、二葉亭によって萌え出した新しい芽は、いっとなしに、若い人達の心の中にその位置を発見した。もはやかれ等は単にバタ臭いとして笑われもせずに、また外国の翻案だとして却けられもせず、そんなものをいくら書いたってしようがありはしないと言われもしなかった。読書社会も種々な変遷を経て段々に進んで行った。江戸時代の駄洒落と軽口と通とは、日増にその影が薄くなって行った。
 天外は緑雨から柳浪の方へと出て行ったような作家であったが──何方かと言えば、年も老っていたし、新派の方に属すべき作家ではなかったかも知れなかったが、しかも聡明なかれは千駄木あたりの感化を土台として、ゾラを背景にした写実主義ということを唱道して、次第にその位置を高めて行った。
 恐らくかれは巧に新進作家の列の中をくぐって、そのまま一時先頭へと出て行ったような作家ではなかったか。大家達のあきたのと、新進作家達のほっと溜息をついたような際に乗じて、自分の位置を鮮明にして行ったような作家ではなかったか。明治三十一二年頃からかれの写実を標榜した作品は続々として世間に出て行った。中でも『はやり唄』あたりが最もその頂点に達した作だと言われていた。
 尠くともかれは紅葉の文と手法とから、または柳浪の単純な客観化から、その自己の文体を発見して行ったに相違なかった。それは別に他の奇もなく──ゾラを標榜しておりながらしかも少しもその綿密と細緻とを持っていないような、何方かと言えば白湯でも飲んだような特色のない文体であったが、しかも、それが将来の文体を一致させることについて、風葉、春葉あたりと共に一大貢献を明治文学に及ぼしたことは、争うことのできない事実であった。それにしても不思議なのは、以前は天外はああした文体とは全く違ったものを書いていたということであった。かれは緑雨の感化のもとに、雅俗折衷体の文章も書けば、皮肉交りの比喩に近い文章をも書いた。そうかと思うと、丸で外国の童話の翻案と言ったような作をも公にした。何うしてもああいふ風なところに出て行く作家とは思われなかったのであった。
 何でもその頃の道聴途説では、かれは千駄木あたりで、これからの文芸は何うしても写実でなければ駄目だというようなことを聞いて、それからそっちの方へ出て行ったとのことであった。かれは次第に『恋と恋』というような作を出すようになって行った。『魔風恋風』あたりに行っては、かれはもはや当代の流行児になっていた。