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第33節

 徳田秋声氏は硯友社出身であった。例の横寺町の紅葉山人の家塾──庭からすぐ行けるようになっている二階建の家塾の中で、風葉、春葉、白峰などと一緒に暮した文学青年のひとりであった。何でもかれは金沢から桐生悠々などと一緒にでてきて、そして藻社の群の中に入れて貰った。それにもかかわらず、硯友社の江戸趣味──都会趣味は、その感化を十分にかれに与えることはできなかったらしかった。
 それにかれは藻社の連中に比して、学問があった。英語にも通じていた。その当時口に上った外国の作家の作品を読むこともできた。それに、割合に煩悶の多い、思慮の深い青年であった。同じ遊ぶにしても、風葉春葉などとはおのずから選を異にしていた。
 かれもやはり私達と同じように、『しがらみ草紙』の翻訳を読んだり、『文学界』を読んだりしたひとりだ。私の記憶では、『文芸倶楽部』に『藪柑子』という小説を掲げて、ちょっと評判が好かったのが、一番最初であったように思われる。今でもそうのように、その作には何処かしっかりしたところと暗いジミなところがあったように覚えている。
 かれと春葉とでは、無論春葉の方が評判が好かったようだ。私などでも、春葉の方が好くなりはしないかと思ったくらいである。春葉の筆には、何処か人好きのするところがあり、それに、深く家庭の心理に入って行くような長所を持っていた。それがあべこべに、春葉は段々家庭小説家の安きに就き、秋声は『雲の行方』あたりから次第にその実力を認められて、通俗がかったような作品を常に発表していたのにもかかわらず、段々その堅い地歩を文壇に占めるようになって行った。
 それはもうよほど後のことであったが、ある批評家はある時かれをドイツのヘルマン・バングに比した。つまりそのジミな堅い手法と何処かねばりの強いところのあるのを比べたのである。成ほどそういうところがある。その短篇などにも、その構造において、その感じにおいて、小ぢんまりした形において、何処か似たところがないではなかった。作中人物の描き方などにおいても、何処か類似した点があった。
 性格描写ということ──それは誰あたりから一番多く言われたかというのに、早稲田側、即ち坪内氏あたりが一番先きにそれを言ったようであった。硯友社では、紅葉はあまり性格描写と言うことを言わなかったはずだ。硯友社でもし言ったものがあるとすれば、柳浪が一番多くそれを言いはしなかったらうかと思う。しかし、それは措くとして、何しろ一時性格描写ということが非常に喧しく言われたことがあったのを私は記憶している。性格が書けていなければ駄目だ。性格が真に迫っていなければ駄目だ。「だって、いくら自然がよく書けていたって、キヤラクタアが書けていないじゃないか」こういう風な批評がよく批評家の口から出た。その自分には、コンポジシヨンだとか、コンストラクシヨンだとか、気分だとか、そういうことについてあまり多くは言われなかった。何でも宙外、抱月あたりがしきりにこの性格描写を論じたらしかった。
 尠くとも秋声氏はその中からでてきたような作家であった。かれははっきりと人間を描き出すことが上手だ。はっきりと性格を浮び上らせることが上手だ。つまりその時代の文壇の空気がよくかれを導いたのであった。またかれの方から言って見ると、その性格描写論のいいところをかれは取って、そしてそのために他の自由を失うような愚には陥らなかったのである。この点でもかれはヘルマン・バングに似ていると言って差支ないのである。
「そうだね。徳田君は、何んなつらい空気の中にいても、容易に砕けることのないような人だね。大丈夫な人だね。しっかりしたところのある人だね」
 こう私達はかれについて言ったことがあったが、実際、かれなればこそ、秋声氏なればこそ、硯友社の群の中から新しい時代の巴渦のただ中に出て、流されも砕かれもせずに今日までやって来たのであった。愚痴を滴しながら、いろいろな潮流に圧倒されずに、ここまでやって来たのであった。私はそれを大変に面白いと思った。
 かれは風葉が田舎に帰った頃から、しきりに新意を出そうとして苦心した。その頃のにも、いろいろな作があったが、金港堂の『文学界』の誌上に載せた『春光』などは、ことにそういう意味において骨を折ったものであるらしかった。