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彼女の舌

四方恵は秋の初めの台風で、異国の果実で、太陽のヒマワリだった。

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真夏が尾を引いたあとのように暑い九月の始業式、二年五組のホームルームクラスはある一人の転校生を待ちわびていた。島国特有の鬱蒼とした熱気が小さな教室の中に立ち込める中、よくとおる声が廊下に響いているのが聞こえた気がした。
刹那、ドアのきしむ音と共に見慣れた担任と見知らぬ少女がゆっくりと教室に入ってきた。背は私より少し高いだろうか。健康的な小麦色をした肌が印象的だった。
嫌な言い方をすると生徒は皆、新しい来客をつま先からつむじまで品定めしていたのだと思う。見た目の話ではない。小さな教室という一種の村社会的閉鎖間のともなう空間では異質な空気は嫌煙されがちなのだ。
先生が黒板に彼女の名前を書き、私たちの前で自己紹介をするように促した。親の都合で四年間アメリカに住んでいたのだという。それならば彼女の纏う何とも背中がむず痒くなるような異なる雰囲気の説明がつく。

教室中にはびこる見知らぬ無数の瞳に萎縮することもなく彼女の短いスピーチは幕を閉じた。「これからよろしくお願いします」と真っ白で真っ直ぐな歯を見せて笑った姿を忘れることはできないだろう。先ほどまでの自分の考えを見透かされたような気がして寮頬がさらに燃えるのを感じた。

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案の定、彼女は昼休みのアイドルになった。砂糖菓子に群がる蟻のように、彼女の周りには人だかりができていた。興味はもちろんあった。しかし、餌をみて無条件に尻尾を振る犬にはなりたくなかったのだろう。私はその輪の中には入らなかった。クラスメートは次々に質問を投げかけていた。あちらこちらから飛んでくる無数の言葉に嫌な顔一つせず答える彼女もある質問で少し困った顔をしていた。

「英語はしゃべれるの?」

私は鼻で笑ってしまった。四年間も住んでいた土地の言葉が離せないはずがないだろう。ひねくれ者の私には愚かな問いかけにしか聞こえなかった。

「うん」

そう彼女が答えた時、私の中である小さな感情が芽生えていた。あの頃には珍しく、海外に絶大な興味を持っていた私は近所の大学生から英語の手ほどき受けていたのだ。流暢に話せるわけでもなければこの小さな島国から出たこともない。しかし心の底では優越感を感じ、自分を肯定する要素の一つであった。私の小さく稚拙な砂の城は島の外からやってきた本物の波に飲み込まれようとしていたのだった。

波の主である当人は人だかりが落ち着くと、唇を私たちとは異なる形で動かした。見た目私たちと変わらない、平たく黄色い転入生が異国の言葉を話せる白い舌を持っているという証拠をつかんでしまった。中学二年の残暑のある日、セーラー服を着たおさげ頭は、「コンプレックス」などという言葉など知らないままに白い舌の持ち主を不快な存在と位置づけていた。

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彼女は少しずつ私たちのクラスになじんでいきながらも独特の海の向こうから来た香りを残していた。ひと月ぐらい過ぎたころの席替えで私と彼女は隣同士になった。正直にいうと彼女に対する私の気持ちも季節と共に落ち着いていたころだった。

「香織ちゃんとあんまり話したことなかったね。よろしく」

いつも通りの軽やかな声で彼女はそういった。今となってはあまり覚えてないけれど、彼女につられて私も愛想のいい返事をしたのだと思う。彼女の、というよりかはアメリカ特有であろう、誰にでも親しくする態度がどうも苦手だった。彼らの好む甘すぎるチョコレート菓子のようなのだ。だからといって余計な波風を立てたくない私は特に何の行動も起こさずに白い舌の持ち主のとなりでいつも通りの日々を繰り返していた。

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ある放課後、水色の空に朱が混じり始めたとき、私は愚かな間違いをしたことに気づいていなかった。少し気を配っていれば気づいたことなのだ。自分の生活に入ってきた異質な存在を少しずつ受け入れて彼女の外国のチョコレート的人柄に毒を抜かれていたからだろう。
私がそのことに気づいたのは帰宅してからだった。自分で少しずつ進めていた英語のノートが鞄になかったのだ。「最悪」その一言が自然と口からこぼれていた。それからは、もうひたすら学校に向かって走った。
昼休みに勉強なんてしようと思ったのが間違いだった。もし誰かに見られたらどうしようか。私のクラスにはもうその道のプロがいるのだ。私はこの隔離された場所で外の世界を夢見ながら地道に進んでいくしかないというのに。それを知ったところで、誰かが私を冷やかすことなどないだろう。そもそも英語を学んでいる生徒など片手で足りるほど少なかったし、あのノートを見たところで理解できるものも少ないだろう。

ただ単に私の小さな秘密が明かされるのが怖かった。

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こんなにも学校は近かったのかと驚くほど短い時間で校門までたどり着いた。空の色も少し紫がかってきたぐらいの違いしかない。不規則な息の乱れを整えながらゆっくりと教室に向かった。職員室に灯りがともっているくらいで、あとは誰もいない静かな教室たちを横目に「きっと、机のどこかにでもあるだろう」と思っていた。その淡い期待は教室の目の前で砕かれることになる。私の教室にだけ灯りがともっていたからだ。きっと誰かが消し忘れただけだと言い聞かせゆっくりとドアに手をかけた。

「あ」

そこには私のノートを手に持った四方恵の姿があった。私はもう何と言っていいかわからない気持ちになって入り口から動けずにいた。

「香織ちゃん、英語勉強してるんだね」

お決まりの笑顔と共に彼女は言う。私はそれに対して何も言えずに赤くうつむいていた。どうしてこんなにも運が悪いのだろうか。よりによって彼女が見つけてしまうなんて。

「返して」

一言いい、私は彼女の手からノートを取り上げた。彼女は今までに見たことがないほど悲しそうな顔をした。けれどもそんなことに気を配っているほど余裕がなかった。二人の間の沈黙に耐えきれなくなってお礼も別れの言葉も言わないまま私は教室をあとにした。

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それから私たちは何もなかったかのように過ごした。特に仲がいいわけでもなく悪いわけでもないただのクラスメート。クラス替えまでにどれくらい話しただろうか。きっと数えるまでもないくらいの回数だ。
今思うと彼女は嬉しかったのかもしれない。私が彼女に何か異なったものを感じていたように彼女も私たち全員に対して違和感を覚えていたのかもしれない。異国の言葉を紡げる白い舌の力を持て余していたというのもあるのだろう。もしあの時、少しでも言葉を交わして素直に話しかけていたらいい友達になれただろうか。

ただ中学二年生のあの日、私はあまりにも幼すぎたのだ。

彼女は中学を卒業するとまたどこかほかの国へ行ってしまった。そして私はいま黄色い舌に白い化粧をするために彼女の過ごした国へ飛び立つ。十数時間のフライトのあまりにも退屈な時間にふと思い出すのは、私をここまで駆り立ててくれた彼女のいた夏のこと。

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昔描いたショートストーリーを発掘しました。英語がまだ話せなかった中学生の頃、帰国子女という存在は眩い太陽でした。

今、似たような立場になり、ダブルルーツの葛藤など、帰国子女であることは良いことばかりではないことを知っています。けれど自分の周りの世界が狭い頃は気が付かないことばかりでした。その浅はかさを忘れないように書き留めた物語です。

そして今、昔の自分に教えてあげたいことは、英語の下はカラフルだということです。当時の私にとって《白い舌》の比喩が表すように、英語とはアメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリアあたりだけのものでした。
しかし蓋を開けてみれば、もっと多くの人が、それぞれのルーツのアクセントや話し方とともに話しているのが英語です。

私の今の英語は日本語とカリフォルニア訛りで、フランス語の話し方に引っ張られています。でもそれこそが《私の舌》なのです。

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