経過 #2

04/04/2007 

当事者でありながら傍観者を強いられると、だれしもが運命論者になってしまう。あらゆる選択肢に「最善の選択」という基準が適応され、その根拠は「確率」なのである。手術の成功率は50%です、手術中に二度目の破裂が起こる可能性は7~8%です、そもそも動脈瘤のできる確率は3%ですが、遺伝的要素がからむと6%だといわれています等々。

確率はふつうの数学ではない。提示された数値の正しさを逆算することはできない。検算ができないのは一方通行、だから確率空間には時間が流れているためだった。しかもその時間は未来に向かって流れているのではなく、過去に向かって流れている。つまりすでに起こった出来事を説明するだけで、これから起こることを当てることはできない。煙草の害についての根拠となる「疫学的統計」についても論争があるのは当然で、予言や占いとしてあるわけではない。

そして、新しい事例が、すでに起こった出来事についての確率を次々に書きかえてゆくのを見ると、確率は未来の、しかも「他者」による規定にすぎないこともわかる。今から選択しようとしているものに投影されていても、その選択の結果が書き換える自分自身の数値なのである。

まあ、しょせん、最善の選択が30%の確率しかないとしてもひとは30%に賭けることしかできないのだから、この数値は「運命を引き受ける覚悟」の《強度》を表わしているといえるかもしれない。

一週間は「冬眠化」させられる。脳の中での出血を薬で溶かし、それを髄液に洗い出させようとしている。瞳孔が正常に戻り(昨日の手術直後は、目を見開いたまま眠っていた)、今日はまぶたを閉じて眠っていた。

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