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理趣経の興味あるって言われるところ。

人間は五感を通じて外界を認識しています。
肉体を持っているとその五感のフィルターを通さなければ
外界の情報を得ることができません。

そういうフィルターを通して見たものというのは、
果たして本当に「正しい」「正確な」情報なのか?
ということを考え始めると、「確かなもの」など
果たしてあるのかな、と何やら落ち着きのない感じになりますね。

とはいえ、この世界にあるものというのは
美しかったり、快いものだったりする訳で。

前回に続き、理趣経について。
さて、例の一番有名どころの「十七清浄句」。

ここはよく「男女の性愛のプロセスを示して
それが全て清浄だということを言っている」
といわれる部分ですが。
まあ、そう読めなくもないですね。

しかし。
ちょっと考えてみてほしいんですけど、
理趣経って漢訳なんですよ。

インドから経典類を持ってきて、中国では国家事業として
多くの経典を漢訳したのですが、その漢訳の時に
もともとインドの経典の内容に含まれていた
性的なニュアンスを持った表現を削除したり変更したり、
おそらく女尊だったと思われる仏さまの性別を不詳にしたり、
画像においても肌ぬぎであった方には服を着せるといった
改変が行われています。

つまり、当時の中国では性的な表現に対しては
大変センシティブだった訳です。

なので、あの十七清浄句の部分だけがそのチェックを
かいくぐったとは考えにくい。
ということは、当時の中国の基準でも性的ニュアンスは
ほとんどない、と思われていた可能性が高いです。

密教はシンボリズムの仏教、ということがよく言われるのですが、
宗教的境地については世間的な言葉や表現では
伝えきれないことも多く、そのために様々な比喩表現や観法を用い
そして何より師匠からの直接の教えを受けて理解することが大切だと
されています。

それは別にことさらに秘密めかしたものにするためではなく、
より確実に言葉にし難い境地を次代につなぐため。

お大師さまが最澄さまに理趣釈経をお貸ししない理由として
あげられたのもそういうことです。
どちらかというと、誤解を受けることを恐れたというより
ご自身が恵果阿闍梨より受けられた授法の仕方を
誠実に守ろうとされたのではないかと思います。

もしかしたら、理趣経のあの表現にドキドキした修行者はいたかも
しれませんが、たぶんお師匠さまに叱られただろうと思いますね。

理趣経は現代においても、「理趣経加行」という行を
行ってからでないと経典を開いてもいけません、といわれている
大切なお経。

さまざまな作法だけでなく、お経も伝授が必要なのが密教のルール。
伝授によってお師匠さまからつぶさに受け継ぐことが大事です。

実践を伴う密教では、学び理解した上で体得したものをお持ちの
先学の教えが、理解の深度を深めて行くときには不可欠と
考えられていたということでしょう。

書かれたものをただ学ぶのではなく、それをよく理解した人から
教えてもらうことで、その理解をより多層的なものにすることが
もう一つの密教の精髄。

「一字に千理を含む」のは何も真言だけではありません。

秘密の理趣を本当に知りたいなら、文字を追ってたのでは
わからない、と考えた方が妥当かもしれませんよ。

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