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許す。

12日は新月。

布薩の話を前にしたかと思いますが、

新月満月は仏教では懺悔して反省する日。

実はわたしチョコが大好きで、特に生チョコに目がありません。

ちょっとずつ楽しもうと思ってた生チョコが美味しすぎて、昨日残そうと思ってた分も食べちゃいました…😅

懺悔します🙏

チョコは規定がないので、精進の時期も食べられるのですが、あの甘さは行中すごーく嬉しかったですね!

昔は催淫や覚醒の効果があるとされてたので、インドにあったらたぶん禁止アイテムになったかも。


許すという言葉は、キリスト教やスピリチュアリズムではよく使うのですが、仏教では特別に意味付けて使うことは少ないかもしれません。

多分仏教は許すのが前提だからかなと思います。

問題は、何を許すのかということ。


許すことが出てくるということは、

その前段階になにか問題があったということです。

そして多くの場合それは人と人とのあいだのこと。

椅子を許すとか、牛を許す、カブトムシを許す、

海を許すとかはないわけですからね。


なのでそれは感情の問題です。

許す許さないという話になる前にあるのは怒りです。

ですからこれは、根本的な煩悩の部分と

関係があるわけです。


心理学では、怒りの下に悲しみがある

とする場合が多いです。

そのあまりにも深い悲しみを隠すために

怒りが使われる。

許せない誰かを思い浮かべたときに

わき起こってくる感情をよく観察してみると

ほぼそのどちらかであることに

気づくのではないかと思います。


怒りも悲しみも、

コミュニケーションの切断があったことについての

諦めや絶望から起こります。

言葉や心や気持ちが通じず、

期待した通り、思った通りの結果が現れなかったので

感情が動くのです。


しかし、コミュニケーションが通じるというのも

期待も言ってみれば執着。

お気に入りのぬいぐるみを手離すまいと泣く

小さな子どものようにそれをつかんでいる。

離したら何が起こるのでしょう?


マインドフルネス瞑想の中でよく行われるものに

「慈悲の瞑想」というものがあります。

これは

自分に対する慈悲

親しい周囲の人や生き物に対する慈悲

生きとし生けるものに対する慈悲

自分の憎むものに対する慈悲

について瞑想します。


初期仏教からある

「慈悲喜捨」の四無量心についての瞑想を

今日的な言葉で誘導するものですが、

ここでは自分の嫌いな人に対しても

その幸せや吉祥を願います。


許すということはなにも、

もう許しますと直接その人に会って伝えて

ハグしなければいけないわけではありません。


許すのは行為と感情。

切断したコミュニケーションが回復しなくても

つながりはある。

あることだけを見ることができればいい。


そして、怒りの感情があったとしても

自分の心の中でその人のいのちの幸せを祈る。

遠く離れたままで、自分にできる範囲の中で

その人のいのちの吉祥を祈る。


それでも十分です。


もう大きくなった子どもは

お気に入りだったぬいぐるみを置いて

どこかに遊びに行くでしょう。


許すとは、そういったものであるような気がします。


ご自身のために、そういう慈悲を育ててください。

何よりも、ご自身の心の平安のために。

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毎月24日はお地蔵さまのご縁日。

この日に小さな法要を営み、

生きとし生けるあらゆるものへの祝福

この世界にあるあらゆる諸霊へのご供養

全ての大地から生まれるあらゆるものへの感謝

をお祈りいたします。

お地蔵さまへのお願い受け付けてます。

締め切りは4月20日です。

宗派宗教にかかわらずお申し込みいただけます。


お問い合わせ、お申し込みは下記アドレスまで。

enshu0615*gmail.com (*を@に置き換えてください)

折り返し申し込み要項をお送りします。

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