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「才能」が無くても、「好き」は仕事にするべきなの?

「才能」という言葉を意識し始めたのは、文章の書き方を本格的に習うようになってからだった。

大学を卒業した後、手に職をつけようと思い、元々興味のあったライティングのスキルを磨くため、池袋にある天狼院書店というところで修行をしていた。僕がライティング・ゼミと呼ばれるゼミでライティングの勉強をして半年がすぎた頃、新しく「ライティング・ゼミ・プロフェッショナルコース」という、より文章のスキルを磨くためのコースが新設された。

「ライティング・ゼミ・プロフェッショナルコース」は、お金を払えば誰でも入れるものではなく、入試という概念が存在した。

試験の内容は、特定のテーマに沿って、5000字以上の文章を2時間で書くこと。これまで5000字以上の文章は書いたことが無かったが、ある種記念受験のつもりで望んでみた。結果は合格。たまたまテーマとの相性が良かったということも後押しし、僕は「ライティング・ゼミ・プロフェッショナルコース」に入ることができた。

しかし、意気揚々としていた自信もわずか数週間で崩れ落ちる。

「ライティング・ゼミ・プロフェッショナルコース」は毎週5000字以上の文章を提出することが求められる。その負荷は圧倒的に重い。ネタ切れや時間との戦いで、毎週土曜日になるととにかく疲弊する。それでも自分で選択した道だと思いがむしゃらに噛み付くが、なかなかいい文章が書けない。
その一方で、他の受講生達は毎度毎度筆舌に尽くしがたい文章を作ってくる。もはやプロレベルだと思えるような文章も中にはあり、各々が自分の代名詞と呼べるようなコンテンツを作りあげ、僕の焦りはどんどん加速していった。

そうなってくると自然と月一の講義の際に、ヒット作の話題が会話の端に登る。

「いや~、あの”授乳”のやつ最高でした!」
「”てりやき”の話読んで、思わずマックまでいっちゃいましたよ!」
「やっぱり、エロを書かせたらうまいっすねぇ」
「私、Kさんの文章、あたたくて本当に好きです」
「Nさんのコンテンツは、いつもスッと突き抜けてて気持ちいです」

受講生の方々が、自分の得意分野を確立したり、絶賛される文章を生み出す中、僕は一人だけ自分の立場が確立されていないように感じた。周回遅れになっている気分だった。書くことは本当にやりたいことでは無いのかも、というネガティブな気持ちすら襲ってきた。他の受講生の方に負けないような、面白い記事、人の心を動かすような記事を書きたいと思って、ノートにネタを書き出して、構成を考えても、いざパソコンに向かうと、なかなかキーボードを叩く手が進まななかった。本当に地獄のような時間だった。

これは面白い記事なのかな。
この記事は誰かのためになるのかな。
周りの人はすごい記事を書いているのに、自分の記事とかまだまだだ。

そんな思いが出てきて、書くことを踏みとどまらせる。
いつしか、「才能」という言葉を盾に使って、言い訳ばかりするようになっていた。

自分よりも人生経験が長いから、書くことがいっぱいあるんだ。
自分の得意分野があるから、困ったらそれを軸に書けるんだ。
小説家養成ゼミに通ってるんだから、そりゃあ書くの得意だよ。

そんな風に、自分の都合のいいように現実を捉え始めていた。

あまり話したくは無いけれど、昔からそうだった。自分が特定の集団でのうまくポジショニングができないと、何かと言い訳を作って、そこでもがくことをせずに、すっと身を引いて観察者の立場に行って、傷つくことを回避しようとする。環境のせい、その人の経験のせいにして、本当の原因から目を背ける。

自分が足掻こうともせずに、頑張ったと自分に言い聞かせ、これでいいやと納得し、立ち止まっているだけに過ぎないのに。自分の都合のいいように物事を解釈するのは簡単だ。僕が書かないことで、誰かが悲しい気持ちになるとか、誰かに迷惑をかけるとかなら問題だが、幸か不幸かそんなことはない。

文章を書くということは、つまるところ、自分のとの戦いだ。才能などではない。毎週コンテンツを作り続けるためには、自分の中を深く深く掘り下げないといけない。

どうして楽しいと思ったんだろう。
どうして悲しいと思ったんだろう。
あの人と自分の見方が違うのはなんでなんだろう。

そうして、いろんなことの当事者になっていく。

当事者になることは、いろんな感情に敏感にならないといけない。時にはそれが自分にとって苦しいことになるとしても。自分の嫌な部分とも対面して、受け入れないといけない。そうすることで、ちょっとずつ目に見えないゆっくりとした速度で、自分が変わっていく。

きっと、受講生の方も、毎週のプレッシャーから逃げようとする自分と対峙して、そいつを倒して、ひねり出して文字を紡いでいる。言い訳をしないで、努力を積み重ねているからこそ、自分の得意分野がわかったり、ヒット作が生み出せたりするのだ。それが、やがて自分の自信へと繋がる。

「才能」という言葉は使い勝手が良くて、かつ残酷な言葉だ。

“僕には才能がなかった”

その一言だけで、苦しみから解放される。

まるで魔法のように、自分と比較した誰かの努力を帳消しにして、本当は自分の努力が足りなかったことをうやむやにしてくれる。だけど、そこから逃げなかった人だけが、「才能」という概念の壁をよじ登った人だけが、周りから「才能がある人」と認知されていく。「才能」とは幻想だ。

「才能」について触れている言葉の中で、僕の好きな言葉がある。

僕には才能がない。そう言ってしまうのは、いっそ楽だった。でも、調律師に必要なのは、才能じゃない。少なくとも、今の段階で必要なのは、才能じゃない。そう思うことで自分を励ましてきた。才能という言葉で紛らわせてはいけない。あきらめる口実に使うわけにはいかない。経験や、訓練や、努力や、知恵、機転、根気、そして情熱。才能が足りないなら、そういったもので置き換えよう。

これは、「羊と鋼の森」(たまたま来月映画化)という小説の一説だ。調律師を目指す主人公、外村が「調律には才能が必要なのか」という問いに対し、ピアニストとしての道を諦め調律師になった先輩が外村に語りかけるシーン。

そして、それに呼応するように、もう1人の先輩調律師、柳がこう返す。

才能っていうのはさ、ものすごく好きだって気持ちなんじゃないか。

2人の言うように、「才能」なんてものは本当は存在しなくて、(センスや適材適所はあるかもしれないけれど)自分が好きなものを、どれだけずっと好きで、考えられるのかってことなんだと思う。

そんなに上手じゃ無いけど、好きなことを仕事にした方が良いのか、心から好きってわけでは無いけど、他人から見たときに得意なことを仕事にしたほうが良いのか。才能について考える中で、そもそもこの問い自体が間違っているんじゃ無いかと思うようになった。

例えば、自分に家族がいて、子供と奥さんを養わないといけないなら、「好き」なことよりも「得意」で、効率よくお金を稼げる方法を選ぶと思う。でも、それはその人にとっての「好き」が家族に向いているだけで、考えようによっては「好き」のために仕事をしているとも言える。

お金が好きなら、それでもいいと思うし、自分の承認欲求を満たすためなら、それもいいと思う。

好きは絶対的だけど、得意は相対的だ。

結局、実はみんな自分の「好き」のために働いている。

でも「お金」というものが好きで、「お金」のことばっかりずっと考えていても、別にお金は増えないし、「お金」を増やしたかったら、自分の仕事のやり方とかを変えなきゃいけない。それゆえに「好き」なことを考える時間が短いから、モチベーションが上がらなかったり、目の前から逃げちゃったりするのかな、と思う。

「才能」がなくても「好き」を仕事にするべきなのか、という問いの僕なりの答えは、その「好き」が「もの」であるならば、オススメしないし、「方法」であるならば、とことん追求するべき。

今もし、自分のやっていることに悩んでいるのならば、自分の「好き」を見直してみると、案外道が開けるかもしれない。

「好き」でい続けられることだけで、立派な才能なのだから。

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