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「万引き家族」から考える、家族というパッケージについて

先週、先行上映をしていた「万引き家族」を見てきた。

観終わったあと、否が応でも”家族”という箱を考えざるを得なくなった。

「万引き家族」で光を浴びている”家族”は、社会的に見たら”いないもの”とされている人たちの集まりだ。祖母、父、母、姉、弟、妹。たまたまその集まりが”家族”というパッケージで包まれているだけ。そこに「血の繋がり」は無い。

だが、彼らは一緒にご飯を食べ、縁側から音だけの花火を聞き、雪だるまを作って遊び、海に行って手を繋ぐ。その部分だけ切り取ると、それは絵に描いたような家族の絵だ。

僕なんかは中学生に上がってから親と一緒に出かけることなどほぼ皆無だった。当時は真面目すぎる父親がいやだと思っていたし、年々一緒に食事をする時間も減って、絵に描いた家族然としているのかというと、もはや微妙な気すらしていた。

高校生の頃、仲のいい友達の家に遊びに行った時のこと。

「ちょっと出かけてくるから携帯貸してよ」
「いいよー」
「間違って彼女に電話かけちゃったらごめんね」
「それはマジでやめてくれ」

なんてやり取りをしているのを見て、距離感の近い家族を羨ましいとも思った。

別に、両親のことが嫌いなんてことは全く無いし、100歳くらいまでは生きて欲しいと思う。それは、一緒に過ごした時間と恩義がゆえだろう。友達の家族が羨ましいのは、ただ単に隣の芝が青く見えるだけと言ってしまえば、それまでのような気もするけど、どこかで家族のあり方に少しコンプレックスを抱えて生きてきた。

同じく是枝監督の作品「そして父になる」でも、家族とは何かという問いが投げかけられている。

「そして父になる」では、血の繋がりが無いとわかった息子を息子として愛し続けられるのかというテーマに焦点が当たっていた。福山雅治演じる一流企業に務める主人公が、リリーフランキー演じる街の電気屋の息子こそが、自分の本当の息子であるという事実に対してどう向き合って行くかという心の葛藤が繊細に描かれている。

人、とりわけ子供の成長というのは、真っ白な無限にページ数のあるスケッチブックにペンキで色付けていくようなものだと思う。何が良くて、何が悪いかは、その家族の信念や守るべき指針によって変わってくる。家族とは一種のコミュニティであり、企業のようなものだ。

「そして父になる」で福山雅治の子供は、小学校のお受験のために、ピアノを習い、ゲームは1日30分までと決められ、一方でリリーフランキーの子供は、自由奔放で父親の変な口癖を覚え、箸の使い方も上手く無い。そして、「万引き家族」の中で、子供にとって「万引き」は生きるための手段としてインプットされている。おそらくそこに血の繋がりというものは介入していないと思う。

血の繋がりというものがあるとすれば、それは遺伝的な繋がりだ。

遺伝は、その人がなんの能力に長けているかを決めるかもしれないけど、僕は家族という箱を決めるものでは無いと思っている。家族というのは一種の小さなコミュニティで、子供が得意なのが勉強だろうが運動だろうが、コミュニティを作る上でそんなのは関係ない。

遺伝的な繋がりをないがしろにできないことは十分わかっている。僕は当事者になったことがないから、外野から考えを述べているにすぎない。

家族を作る箱の中で、どこに大切さを求めるのか。

それは人によって違って当たり前だ。これが正解という答えがある訳では無い。

「万引き家族」で描かれている家族の箱は、とても脆い。吹けば飛んでしまうようなトタン製の箱だ。物語の終盤、あることがきっかけで家族というパッケージが剥ぎ取られてしまう。それでも、血の繋がりがなくとも、どこかで繋がっていたいと願う彼らを、僕らはちゃんと見なければいけないと思う。

結婚すらしてない26歳の若僧が、家族という大きすぎるテーマを語るべきでは無いのかも知れない。ここに書いたことは僕の一考えに過ぎないし、それぞれの専門家の方からみたら「何を言っているんだ」と思うことかもしれない。

だから僕にできるのは、この素晴らしい作品を1人でも多くの人に観てもらうきっかけを作ることだと思う。そして、家族という箱について考える人を増やすことだと思う。

バロンドール賞を取っているからという理由では無く、純粋これからの家族を持つであろう若い世代の人に観て欲しいと強く思う。


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