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ジャーナリスト医師

まれな存在

 もう9年も前になるが、私は日本科学技術ジャーナリスト会議から「科学ジャーナリスト賞」という賞を授与された。ディスカヴァー・トゥエンティワンから出した「博士漂流時代」が評価されたからだ。

 著書が評価されたのは素直にうれしかった。

 歴代の科学ジャーナリスト賞(大賞含む)受賞者は、上でリンクした公式サイトよりWikipediaのほうが見やすい。それをみると、新聞社や放送局関係者の受賞が多数を占める。やはりというか。しかし、著書多数の福岡伸一さん、今は東大教授の横山広美さん、筋萎縮性側索硬化症(ALS)と闘いながら「生命の星の条件を探る」を書かれた故阿部豊さんなど研究者もいる。

 医師免許を持ちながら科学ジャーナリスト賞を受賞したのは、作家の海堂尊さんと私の二人のみのようだ。しかもともに病理医という奇遇な共通項を持つ。海堂さんには一度お会いしたこともあり、シンパシーを抱いている。著書で批判されたこともあるが、まあ、それも含めて海堂さんの忖度しない態度はすごいなあと思ったりしている。

 話を戻すと、医師で科学ジャーナリスト賞受賞者は二人のみ。海堂さんはもう病理医を辞めて作家が中心ということだから、勤務医は一人ということになる。

 いっぽう、日本医学ジャーナリスト協会賞というのがある。こちらの受賞者には、森田洋之さんなど現役医師がいる。とはいえ、やはりこちらも報道関係者の受賞が多い。

 ジョン・マドックス賞という権威ある世界的な科学ジャーナリストの賞を受賞した村中璃子さんも医師だ。

 森田さんと村中さんはジャーナリストと名乗られている。

 このほか、朽木誠一郎さんのように医学部卒業後に報道機関で働く方もいるが、現役医師兼ジャーナリストというのはまれな部類に入るのだろう。私は科学ジャーナリスト賞を受賞しただけで、ジャーナリストなのかは心もとないが(後述)。

 今この記事を書いていて思ったが、森田さんと村中さんは一橋大学を出て医学部に入りなおしたという共通項がある。私も東大を出て神戸大医学部に学士編入したので、他大学卒で医学部に入りなおした人間が、こうしたまれなことをするのかな…。n=3では何も言えないが。

ジャーナリストとはそもそも何?

 科学ジャーナリスト賞とは何だろう。ホームページには以下のように書かれている。

科学ジャーナリスト賞は、科学技術に関する報道や出版、映像などの分野で優れた成果をあげた人を表彰いたします。原則として個人(グループの場合は代表者)が対象です。ジャーナリストだけでなく、自然科学分野で優れた啓発書を著した科学者や科学技術コミュニケーターなども対象とします。

 おそらく私は、上記のなかの後者、啓発書を著した人間として認識されたのだろう。

 それは当たり前ではある。ジャーナリストとしての訓練を受けたことはない。ただ、授賞理由には、以下のように書かれている。

【授賞理由】
 いわゆるポスドク問題、博士余剰の実態、原因、問題点などを多くのデータを示して浮き彫りにし、鋭く分析したうえ、これからどうすべきか著者なりの解決策も提言している。時宜にかなった好著。

 単に科学技術を分かりやすく伝える啓蒙的な本ではなく、分析をしていることが評価対象になっている。それはジャーナリストにも通じる部分かなとは思う。

 しかし、ジャーナリストが何かを分かっていないとなんとも言えない。ジャーナリストとはそもそも何なのだろう。

 広辞苑第7版には以下のように書かれている。

新聞・雑誌・放送などの編集者・記者・寄稿家などの総称

 実にあっさりしたものだ。

 類義語のジャーナリズムはどうなっているだろう。

新聞・雑誌・ラジオ・テレビなどで時事的な問題の報道・解説・批評などを行う活動。また、その事業・組織。

 新聞や雑誌、テレビ、ラジオは時事的な問題を追うから、ジャーナリストは時事的な問題に関わるということになる。

 私が博士漂流時代で扱ったのは、ポスドク問題という時事的な問題なので、自らジャーナリストと名乗っても悪くはないことになる。

ジャーナリストと名乗っていい?

 ただ、私ごときがジャーナリストと名乗ってよいのか、何か気恥ずかしい気がする。

 立花隆氏は、2006年の朝日新聞のシンポジウムで、ジャーナリズムの本質的な部分は「フリーダム・オブ・スピーチ」と「フリーダム・オブ・プレス」にあると述べる。

 「フリーダム・オブ・プレス」は出版の自由とはニュアンスが異なり、言論の自由でしゃべったものを印刷する活動をすべて含むものだという。

 長じて「プレス」は報道を意味し、ジャーナリストは「プレス」の腕章をつけて取材に出かける。そのプレスの役割は「権力のチェック機構」だという。

 また、ジャーナリストの条件を以下のように述べていた。

基本は、(1)取材力(対人関係形成力/信頼される人格)、(2)筆力(文章力より説得力/ナルホド/その通り)、(3)眼力(広く、深く、遠くをみる力/裏側を読む力)、(4)バランス感覚、というふうに分かれると思います。

 私の場合、病院勤務医という制約があり、誰かを取材をすることがなかなかできない。取材の代わりに「ウェブ取材」とでもいうべき文献検索などはかなりしているが。取材の作法も誰かから教わったわけではない。そういう意味でジャーナリストの条件を完全に満たしているとは言えないだろう。

 ただ、権力をチェックすることも含め、科学技術や医療を批判的な視点も含めて(もちろん肯定もするときはする)見ていきたいと思っており、最近出した本「研究不正と歪んだ科学」でもそれは貫いている。ジャーナリストと呼ばれようが呼ばれなかろうが構わないが、ジャーナリストに近い意識は持っている。

 科学ジャーナリスト賞受賞者でもある米本昌平さんは、科学にシンパシーを持ちながらも、突き放した視点で科学論文を読み解く読み手が必要と述べている(中央公論1999年4月号)。ジャーナリストと研究者の中間的な存在だ。

 たぶんそのカテゴリーに、在野の研究者などが活躍する場があるように思うが、そのあたりはまた別の機会に…。

兼業ジャーナリストは可能か

 近年科学ジャーナリスト賞受賞歴が決して評価の対象になっていないことに気が付くようになった。いや、むしろ避けるべき人間と認識されているようだ。とくに、研究不正に関する話題を扱うようになった2014年以降、それは如実に感じるようになった。

 詳しくは述べられないが、様々な方から様々なことを言われた。「評論家になるな」とは複数の方から言われたし(評論家とジャーナリストは違うよなあと思うが)、批判的言動を注意されたこともある。医学界に潜入取材をしていると思われているのかなと思う出来事もあった。

 もちろん、私の言動に対し、様々な批判があってもそれはそれでいいと思う。言論には自由があると同時に責任がある。しかし、こうした批判には、ある種の本質的疑問も交じっていると思う。

 それは、所属する組織や、それが属するコミュニティ(科学界、医療界等)を内部から批判できるのか、してよいのか、ということだ。

 このあたりは、ジャーナリストとして「飯を食っている」人とは違うところだ。「本業」ジャーナリストでさえ、報道機関に所属している場合は、所属組織の論理に逆らうことができないし、忖度せざるを得ない。ましてや、病院に所属しながら、科学界や医療界を批判できるのか。

 たとえ内部にいようと、批判は重要だと思うし、言うべきだと思う。

 そうは言うものの、なかなか難しいのが現状だ。科学界はまだそれでも割と批判に寛容なところがあるが、医療界は批判に対する抵抗が強い印象で、批判を非難ととらえてしまう。批判をするならある程度の不利益を受けることも覚悟しなければならない。

 報道機関以外の組織に属してジャーナリストになることは簡単ではない。そういえば、医者兼ジャーナリストの森田さんも村中さんも、特定の組織には所属していない。海堂さんは作家だし。

コミュニティに属していることの利点

 ただ一方で、コミュニティに所属していないと信用されない場合もある。科学ジャーナリストや医療ジャーナリストは、科学者や医者からは「分かっていないなあ」と思われてしまうケースも多い。

 私の例でいえば、研究不正に関する発言に対し、「お前は論文をたいして書いていないではないか」「そんな奴に何が分かるのか」と言われることがある。

 一流ジャーナリストは、取材対象との知識ギャップを猛烈な勉強で埋めているのだろうが、埋まり切るものではない。

 対象に近づきすぎれば取り込まれ、独立性が失われる。広報になってしまう。一方離れすぎれば信用されない。利益相反問題だ。おそらく古今東西のジャーナリストはこのことに悩んできたのだろう。

じゃあどうするか

 正月の真夜中にうだうだと悩みながら書いてきたが、問題はじゃあ私はどうするか、ってことだ。

 組織に所属しながら、兼業で活動を続けるのか。あるいは森田さんたちのように、特定の既存組織の構成員にならず活動を続けるのか

 組織に所属するといってもどの組織に所属するのか。

 いずれにせよ、科学ジャーナリスト賞受賞者として、今やっている活動をやめることは選択肢にはないのは確かだ。

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