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テレビ局の地震報道の後進性 どうしてアナクロな報道から抜け出せないのか?

4月14日の晩から始まった熊本地震ですが、まだ余震は続いてるし、地震の起きる範囲も広がりそうな雰囲気もあったりで、全然予断を許しません。

このような災害時の情報伝達、共有手段としては、いまだにテレビというメディアが一番多くの人に伝える点で有力だと思いますが、一方で、今回の地震報道を見ていて、そのテレビの情報伝達が有効に活かされていないようにも強く感じたので少しメモとして書いておこうと思うのです。

大きく分けて、私が感じる問題点は次の4つです。

1 技術が活かされていないと感じる

2 センセーショナリズムから抜け出していないこと

3 リソースの配分がおかしいのではないか

4 正確性が疎かになっていること

2は従来からの問題を引きずっているといえるし、3は2と関連して現場主義から抜けきれない中、情報を伝える時のリソース配分がうまくないように感じられます。
4はネットが広まって様々な情報が錯綜するようになったゆえに目立ち始めたことといえますが、今回特に気になったのは1の部分なので、まず、この技術に関わるところから書いてみようと思います。

もちろん、私の指摘は私の勘違い、または難癖、そして実現できない理由もあるのかもしれません、もしそういうのに気づいたなら、ぜひ教えていただきたいです。

1 技術が活かされてないと感じる

テレビというメディアは単純な受身型のメディアという面がありますが、最近は地上波デジタル放送によって双方向に対応したり、サブチャンネルによって各局複数の情報を同時放送できるようになってます。でも、そういったことが災害報道では全く活かされないのはどうしてなんでしょう?というのが、真っ先に思い浮かんだ素朴な疑問です。
その意味で、テレビは映像が4K高精細とか、地上波デジタル放送とか技術の向上を言っているわりに、それが実際の放送にどう役立ってるの?って気分になるのです。

たとえば、今回の地震報道に限らず、ある程度大きな事件事故だと、テレビ局各局が一斉に臨時放送体制になります。そのこと自体は報道当初としてはおかしくないと思いますが、しばらくそれが続いてひたすらチャンネルをどこに変えても災害報道って状況、それも各局同じようなのってのを見てると違和感、不思議さを伴ってきます。
昔からある冗談に、核戦争が始まって各局がそれを放送してるのにテレビ東京だけはゴルフ番組をやってる、、みたいな話?w

地上波デジタル放送になって、テレビのチャンネルは複数放送できるようになっているのに、それを活用しないのはどうしてなんでしょう?

本チャンネルとサブチャンネルのどちらかでは通常放送にしてみるとか、ライブの災害情報は本チャンネルで、被害状況や義援金や固定的に伝える情報はサブチャンネルにしてみるとか。どうしてしないんでしょう?
それをするコストも人材もいないんでしょうか?

もし、そうならなんのための地上波デジタル放送なんでしょう???

そもそもサブチャンネルは何に使うためなんだ、って思うのです。。。

他にも不思議に思ったことがあります。
気象庁の担当課長が地震の状況や予測について発表するのを各局がライブで放送してて、どのチャンネルも担当課長の話している顔のアップ!!w
でも、担当課長はどうやら報道各局に渡した資料を元に話しているわけです。資料の次のページをご覧くださいとか、次の表ではとか言ってるわけです。。。でも、視聴者は全然わからんですよね。

その配布資料の扱いがどのような規則になっているかはわかりませんが、担当課長のアップを延々見さされるより、資料をその場でハンディカメラとかで写してくれてもいいんじゃないかと思うのです。話している課長と資料の2分割の画面にするとか。
もちろんみんながわかるわけでもないかもしれないし、資料は見づらいかもしれないけど、ある程度、どんなことを話しているかはわかる助けにはならないのかしら?
それとも、そんなのを見せても視聴者はわからないよね、と思われてるのかしら。やはり視聴者はテレビ局に甘く見られてるのでしょうか?

そんなこと、最初から全く考えもつかないのかしら?

そういったところにも、テレビ局の報道スタイルはパターンが決まっていて、どうすれば何が伝わるかなんてことを、変えていこうとか考えてないんでしょうね。。。
それがすごく残念ですし、技術も全然使いこなせてない、もったいなさを強くかんじるのです。

2 センセーショナリズムから抜け出していない

これは今回の災害報道に限らず昔からという気はします。とにかくスクープ的な映像を求めてしまうこと、たとえば災害の場合は劇的な救出とかね。

たしかに災害報道の時に、現地の悲惨な状況や、被害に遭った人々の境遇を伝えることも大事だと思いますが、だからといってそればかり繰り返し報道するとなると、結局はそれは誰のためのなんのための情報かということが忘れ去られると同時に、鈍感になるという問題もあるのではないでしょうか。当然、取材され続ける人のの側の負担という問題もあるでしょうし、下手をすると災害救助の邪魔をすることにもなりかねません。
すべてはバランスの問題でもあるし、情報のつながりの問題でもあると思うのです。
たとえば、被災地の悲惨な状況や、困窮、資源の不足を取材したのなら、そこにうまくそれを助けるために私たちが何ができるか、義援金のお願いや救援物資の送り先といったものの情報をうまくセットにして常に伝えるといった工夫が足らない(全くないとはいいませんが)のではないでしょうか。

こういう部分でも1で述べたような技術的な工夫によって、よりスムーズに救援と繋げるといったことができそうに思うのですが。

3 リソースの配分がおかしいのではないか

もう一点2と関連付けて気になったのは、、延々テレビ局のスタジオから放送しているのに、出てくるのは切迫した雰囲気で伝えるアナウンサーと、わずかな地震学者や地質学者系の専門家だけという感じなことです。

もちろん地震の発生のメカニズムやこれから先の予測については地震学者という専門家が必要なのはわかりますが、その人相手にアナウンサーが避難している人々がこれから気をつけることとか、生活についての課題を尋ねていたりするのを見ると違和感を感じます。
それは地震学者に尋ねることではないだろう。地震学者だって答えるのに困るだろうし、当たり障りのないことしかいえないだろうと。。。

普段からテレビ局はバラエティ番組や情報番組であれほどコメンテーターやら、何やら評論家やらをたくさんテレビ局に呼んで並べているくせに、こういう長時間の放送の時にこの人の少なさはなんなんでしょう?
もちろん、非常事態なので確保しづらいのかもしれませんが、災害時の危機管理の専門家や、危機状態での生活の仕方をアドバイスしてくれる専門家だっているだろうし、それこそ物が不足したりインフラが普通の時の生活の知恵を言ってくれるそれこそサバイバル評論家だっているでしょうに、そういう人たちはどうしてテレビ局に呼ばれないんでしょう?

普段、あんなにスタジオにタレントやお笑い芸人やら評論家やら人を呼んでるのに。。。もうちょっと情報発信に役立つ人を呼ぶ努力はしないんでしょうかね??

そのくせ、災害地にはたくさんの資材や取材団を送り込んで、取材し報道しているわりに、何を伝えてるのかがあいまいになっているなんて、もうリソースもコストも使い方もバランスも間違ってるのではないでしょうか?
もっと、被災から立ち直るための助けにもなれるはずなのにね。

4 正確性が疎かになっていること

これはネットという新たな情報源が現れ、そこでも情報が流れ、共有されるようになったゆえに強調されることかもしれません。
テレビというのは、今回の地震報道の場合は、気象庁の発表であれ、避難場所の伝達であれ、災害義援金の振り込み先であれ、最も効率的に多数の人に伝え得るメディアであることには変わりありません。一方で、ネットでは現場の声がすぐに聞こえ、速報性の利点はあるかもしれませんが、情報の信憑性、さらにデマの拡散といった問題点もあります。

テレビはその速報性やリアル感といった部分での競争を意識するあまり、ネットで流れる情報をあまり確認せずにテレビでも取り上げるという愚を犯すようになり、自ら信頼性を下げているのは嘆かわしいことといえるでしょう。
情報を受け取る側としても、公式発表の情報を見て判断するにとどめるようにするしかないわけですが、ネットを見てると、そちらで大騒ぎする情報も目についてしまうので、そこをうまく切り分けて判断できるようになるしかないのでしょう。
その区別をつけずに、両方を平等に扱う人の情報もあまり信用せずに振り回されないようにするとか。。。

このように見てきて、テレビ離れが激しいとか、テレビ局は予算が使えなくなってるとかいわれますが、それ以前にその利便性を発揮できるのにできてないことが多いと思うのです。
そこをもうちょっとなんとかできないんですかね。そしてそれができないようでは、やっぱりテレビは先細りなのかも、ともおもってしまうのです。

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