
マイケル御手洗の宴会芸白熱教室
※この記事は2018年4月に行われた「第74回日本宴会芸学会」の特別講義・マイケル御手洗の宴会芸白熱教室の講義内容を一部再編集したものです。
みなさん、こんにちは。マイケル御手洗です。
私の生物学的ルーツは、みなさんと同じように日本にあります。普段は、アメリカで宴会芸哲学の講義を受け持っています。日本での講義は、これがはじめてです。このようなチャレンジングでエキサイティングな場を与えてくれた、日本宴会芸学会の皆様。会場をご提供いただいた中延商店街の皆様、ありがとうございます。
そして、宴会芸研究員の君たち。ようこそ、白熱教室へ。
この中延会館での君たちとのこの対話を何週間も楽しみにしてきました。日本には、特別な、宴会芸の文化があり、誰もが、明確な宴会芸哲学を持っている。これは、素晴らしいことです。
しかし、日本人の友人から、心配なことを聞きました。日本人はとても恥ずかしがり屋なので、この種のディベートには参加しないと。私は彼の言うことを信じていない。間違っていると思う。
でも実際、君たち自身がどう思っているか知りたい。君たちの中で、引っ込み思案で、ここでの活発なディベートに参加できない人、手を挙げて!
<手を挙げる人はいない>
宜しい。(笑)では、はじめよう。
この授業では、宴会芸における正義とは何か?という問いに対して、
君たちと一緒に探っていきたい。
この問いに対する答えは、歴史上さまざまな哲学者が出して発展させ、議論してきたものだ。ベンサム、カント、御手洗太。これらの哲学者が、我々の旅のパートナーだ。
これらの哲学者の考えを直接的に探るよりも、私がいくつかの質問をし、みなさんがそれにこたえていくことで思考を深めていきたい。質問と回答を通して、我々は自分で考え始め、宴会芸の正義について、検討することができるようになる。
まず最初に、この話を知っているだろうか。
【Case1】
君は、営業マンである。大手クライアント様の接待のためヤカタブネに乗っている。船上には、クライアントがキーマンの役員を含め5人。君の会社も営業部長を含め5人。その中で君は1番後輩としよう。会は中盤。景色も見飽きて、テンプラもひとしきり食べ終わったころ。君の上司の営業部長が切り出す。「そろそろ、うちの若いものから宴会芸でもひとつ」すると、向こうも役員がいう。「いえいえ、うちのも負けてませんから、ぜひ対決を」にわかに盛り上がるヤカタブネ。全員の視線が君に集まる。隣に座っている先輩が耳打ちする。「ウケなくてもなんとかするから、なにかやりなさい。」
この状況で、宴会芸をやるかどうか。これが本当の今日最初の投票だ。宴会芸をやる人手を挙げて。やらない人は?やる人の方が多いようだね。まずやる方の意見を聞こう。じゃあ、そこの、君。
生徒1)やります。やらないと、部長に恥をかかせることになり、後で何を言われるかわからないから。
つまり、君は、自分の保身のために、やむを得ず宴会芸をやる、ということだね?他の人は?よし、君の意見は?
生徒2)屋形船の中盤となると、結構みんな飽きてきていると思いますし、船酔いしている人もいると思うので、気分を変えるためにも、宴会芸は有効だと思います。先方の役員も乗り気のようなので、みんなを盛り上げるために、役に立ちたいと思います。
気に入った。君の名前は?
ウシロ)「ウシロ」です。
それで、君は何をやる?
ウシロ)コマネチ
それだけ?
ウシロ)1人目なので、先輩たちのハードルを下げるためにも、これくらいがいいと思います。
よろしい。ウシロ。たったままで。では、ウシロの意見に、反対の人は?
生徒3)宴会芸とは、自由意志でしか許されないものです。他人から強要されるべきものではありません。部長の「うちの若いものが」という言い方が不適切だと思います。これは、パワハラだと思います。
つまり、部長が自分でやれ、と?
生徒3)そうですね。それならいいと思います。
ありがとう。君の名前は?
キャリア)キャリア。
キャリアの意見についてウシロはどう思う?
ウシロ)仮に部長が最初にやったとして、どうせ、下もやらなきゃいけない空気になりますし、最初にやってしまった方がハードルが低いのは間違いないので、「若いやつらが」とふってもらった方が助かります。先輩になるにつれ、芸の質が上がることで、統率の取れた組織であることをクライアントに認識させることもできます。
キャリア、どう思う?
キャリア)部長がやったら下もやらなきゃいけない、というの軍隊主義的な危険な幻想だと思います。年次が上がるほどに宴会芸の質があがるというのも幻想です。人間は人間らしく自由意志で宴会芸に取り組むべきです。この例では、自由意志として宴会芸をやりたいと思った部長が宴会芸を披露して、一人ですべてを解決するべきだと思います。
なるほど。いきなり白熱したね。これは、とても重要な議論だ。
「ウシロ」の意見は、最大多数の最大幸福を追求すべきという考え方。つまり、19世紀の哲学者、ジェレミー・ベンサムが最初に力強く主張した功利主義だ。ウシロ。君は、自分が功利主義者だと思うか?
ウシロ)思います。
ジェレミー・ベンサム(1748年- 1832年)
よろしい。
一方、キャリアの意見は、人間の尊厳に最も大きな価値を置く、という考え方。つまり、カントの義務に基づく道徳理論だ。この2つの理論は激しく対立しながら、哲学と社会を発展させてきた。我々は今、ベンサムとカントの討論の場に同席している、というわけだ。
イマヌエル・カント(1724年 - 1804年)
ベンサムによれば「最大多数の最大幸福のためであれば、宴会芸は可能」であり、カントによれば「人間の尊厳が守られる限りにおいてのみ、宴会芸は可能」である。
それでは次に、宴会芸の中身について考察を進めよう。
先ほどのケーススタディの中で、君の先輩は「なんでもいいから、やってみな」という指示をした。ではこれが「焼きイクラ丼をやりなさい」と言われたとしたら、どうだろう?焼きイクラ丼について、十分に知っている人は?
<数人が挙手>
OK、説明しよう。焼きイクラ丼とは。宴会芸がセクハラ・パワハラの温床になっていたバブルの時代に生まれた宴会芸。つまり。バブル期宴会芸のひとつだ。バブル期宴会芸のバイブル、立川竜介著『ザ・宴会芸』から引用しよう。
焼きイクラ丼
営業マンの悲哀に溢れた下痢止め薬。焼きイクラ丼。
①ご飯の入った茶碗とハシをもって登場。「な~んか腹の調子が悪いなぁ。よし、こんな時は焼きイクラ丼だ。焼きイクラ丼!」
②その場にすわって丸薬を取り出しニオイを嗅ぐ。「これこれ、この新鮮な香りがたまんないんだよなぁ」
③ご飯全体に敷き詰めるように、丸薬を思い切りふりかける。ふりかけをかけるような感じで、楽しそうにやるのがコツ。
④「いただきま~す」の後に一瞬の間をおき、真っ黒になった丼の中身をちょっと得意気に見せびらかすようにする。
そして、ハシを持って一気に食べる。よ~し、これで明日も大丈夫だ!月々のノルマに追われながら、額に汗して頑張る営業マンたちの間でウケている芸。普段から胃や腸を患っている人がやるとリアリティがあって、涙あり笑いありの芸になる。元気はつらつとしたタイプの人がやっても単なるガサツな芸になってしまうから、あまりおすすめできない。栄養ドリンクをかけて、お茶漬け風に食べるバリエーションもある。
[ザ・宴会芸―血湧き、肉踊る!!爆笑!エンターテイメント/立川竜介/1994/成美堂出版]
さぁ、どうだろう?焼きイクラ丼、やるという人?
<ほとんど誰も手を挙げない>
おかしいな、ずいぶん、少ないね。日本人にとって、お米はソウルフードなんだろう?お腹に効く丸薬も誰もが家に常備していると聞いている。その2つを組み合わせることが何が問題なんだろう?少なくとも、胃腸は元気になると思うのだけど、どうだろう?
参考:「焼きイクラ丼」モデル:赤城山ニコル
この宴会芸をどうしてやりたくないか説明してれる人、手を挙げて?
生徒4)「私は、丸薬の味が苦手なので、上手に食べられないと思います。吐いてしまう可能性も十分あると思います。屋形船は逃げ場もないですし、最悪なことになるかなと思います」
君はつまり、失敗してしまうことで、全体の利益を損なう可能性が高いから、やりたくないということだね?
生徒4「はい、そうなると思います」
他の人の意見は?
生徒5「そもそも、イケてるのかな、という不安があります。ちょっと古い感じのお笑いだなと。ただ、身体を張ってるだけに感じるので、そういうのは、ポリシーとして嫌だなと思います。食べ物を粗末にする、というのも抵抗がありますし・・・。」
こんな風にディベートが展開するとは、面白い。
ある宴会芸がイケてる、イケてないというのは、時代背景、人間関係、演者のコンディション、その日の天気など、変数が極めて多いので、ここでは検討しないことにする。
その替わり、もう一つ、新しい仮定を足そう。
クライアントが体を張った宴会芸が盛んなメーカーで。「焼きイクラ丼」は伝統的に行われていた宴会芸だったらどうだろう?昔はみんなやっていたけど、最近は廃れてしまっていて、おじさん達はさみしく思っている。取引先の若者であるあなたが今、「焼きイクラ丼」を披露すれば、クライアントの役員は必ず喜ぶ、あなたの株は上がる。あなたの会社の株も上がる。その確信がある場合はどうだろう?
ウシロ、君はどうする?
ウシロ「やります。クライアントが喜ぶのあれば、営業マンとしてやるべきだと思います。丸薬は味がきついので、少し不安なので、事前に練習してでも身に着けたいと思います。」
ウシロ、君は完全なサラリーマンだ。
じゃあ、こういう場合はどうだろう。丸薬が見た目は完全に丸薬だけど。味はゴハンデスヨで美味しく食べられるとしたら?やるという人?
<ほとんど手が上がる>
もう一歩進めよう。もし、君自身が重大な秘密を抱えているとして。例えば、何らかの事情を忖度して文書の改ざんをしてしまっていて。刑事訴追される可能性があるとする。でもそれが「焼きイクラ丼」をすれば許される。刑事訴追されない。そんな場合はどうだろう?
それでも、やらない、という人は?君?
生徒5「宴会芸とは、神にささげる捧げものであるべきものです。ここで焼きイクラ丼をやってしまうと、クライアントへの捧げものとなり、結果として品性を失うと思います。」
なるほど・・・。君の名前は?
中野原「中野原です」
中野原の意見には、宴会芸における正義を検討する上で、極めて重要な要素が含まれている。20世紀の哲学者である御手洗太は、宴会芸三原則をこう定義した。
1自分を安全な場所に置かないこと
2神への捧げものであること
3己のアイデンティティに忠実であること
この三原則を満たすもののみを、御手洗は宴会芸と呼んだんだ。
御手洗太 (現・日本宴会芸学会会長)
ここへきて、人類を代表する3人の哲学者の意見が、全て出そろったというわけだ。それでは、最後の例に行こう。
CASE2
君の親族に、名物おじさんがいる。そのおじさんは、バブル期宴会芸(※バブル期に生まれたセクハラ・パワハラまがいの宴会芸)の申し子で。どんな宴会でも必ずバブル期宴会芸を披露するとしよう。彼のレパートリーは、例えば、こんなところだ。
① 上司の靴を奪い取り、コップにしてビールを一気飲み。あなたについていっきま~す
② 裸に電飾を巻き付けて音楽にあわせて踊る。エレクトリカルパレード
③ 口の中からドライアイスの煙を吐き秘密を暴露する。エクトプラズマ。
④ 裸になって股にモップを挟む。本木雅弘。
⑤ 裸になって胸を貝殻で隠す。武田久美子。
そんな中、君は結婚することになった。お相手のご両親は、運悪く二人とも教師だ。
さぁ、ここで質問。君は、おじさんを結婚披露宴に招待するだろうか?血のつながり的には、呼ぶべき距離感の人だ。しかし、呼ぶと必ず、バブル期宴会芸がついてくる。呼ばない人、手をあげて?
ウシロ、君はさっきまで、バブル期宴会芸に対してかなり寛容な態度だったが、今は、呼ばない、に手をあげている。理由を聞かせてくれるかな?
ウシロ「普通に、迷惑なので来てほしくないです」
でもさ、おじさんはバブル期宴会芸の名手だよ?相当ウケることは間違いないのだが・・・。
ウシロ「どれだけウケても、相手の両親からのマイナス評価は到底補えないと思います。そもそも披露宴にウケは求めません。」
つまり君は、功利主義のスタンスを徹底しているわけだね?
ウシロ「そうだと思います。」
よろしい、では、呼ぶ人、手をあげて?おいおい、キャリア!?本当かい!?
キャリア「はい」
このおじさんは、君に嫌悪感を与えない?
キャリア「架空の話と知った上でも生理的嫌悪感を覚えます」
でも、披露宴には呼ぶんだ?
キャリア「それでもなお、血のつながりは事実です。また、宴会芸は自由意志で行うべきものです。叔父が自由意志でバブル期宴会芸を行うのであれば、それは否定する理由はないと思います。」
見直したよ、キャリア。君がそこまで、自由意志を重んじるカント的道徳観を深く理解しているとは思わなかった。
中野原、君の意見は?どちらにも手を挙げていなかったようだけど?
中野原「悩ましいです。宴会芸三原則に照らし合わせると、自分を安全な場所にはおかない。己のアイデンティティに忠実、は満たしていると思います。神への捧げもの、という点が微妙ですね。。」
でも、靴でビールを飲んだり、貝殻ビキニではしゃいだりするんだから。君たち新郎新婦への捧げものではないよね?
中野原「はい、それは間違いないと思います」
とすると、おじさんなりの価値観で「神への捧げもの」として、バブル期宴会芸に取り組んでいたとすれば。宴会芸三原則には適合するんじゃないかな?
中野原「うーん。。神はどこにいるのでしょうか・・・。」
中野原が悩むのも無理はない。これは、御手洗のジレンマと呼ばれるものだ。御手洗の規定した宴会芸三原則では、芸の内容は問うていない。しかし、御手洗自身は、バブル期宴会芸のようなものは嫌悪して、明治以前からある古典宴会芸を偏重する傾向があった。御手洗自身は「神への捧げもの」という条項をもってこれを退けていたが、一部研究者からは、神の名前を都合よく使い、自分の好みを押し付けている、という批判があるのも事実だ。
これについて、救世主、どう思う?
救世主「・・・」
このように、宴会芸と正義に関する問題は、困難で、議論されてきたものだ。これ以上に繊細で、激しやすく、道徳的に衝突する問題は、他にはないだろう。私が素晴らしいと思うのは、みんなが異なる見解を示し、みんなが心に深く根差した信念により、意義を唱えながらなお、お互いの意見に耳を傾けあったということだ。そして、宴会芸の根底にある道徳原理を探ろうとして、議論してきたことだ。
我々は問題を解決することはなかった。
しかし、ディベートや道徳的議論はたいていの場合、全員の合意を得るものではないだろう。今日の議論で、我々は前進し、自信を得たと思う。
我々はここで、哲学的議論をしてきた。
冒頭で君たちに話した、日本人の友人の懸念。「日本人は真剣な対話に参加することはないだろう」という件。私の結論はこうだ。私が正しく彼は間違っていた。君たちは、宴会芸と正義について、深い関心を持っている。このことが分かって、とても刺激的で励みになった。
宴会芸について意見が合わないとき、決して同意することがないのに、どうしてわざわざ考え続けるのか?と聞かれることがある。ある意味、それは正しい。
なぜなら、偉大な哲学者でさえも。御手洗太でさえも、結局結論を出せなかった。では、なぜ我々が?私の答えは、宴会芸哲学は不可能だが、避けられないということ。我々は毎日、その問いに対する答えを生きてる。哲学者たちの問いだ。
何よりも感動的で刺激的だったのはここにいる君たちと一緒に行った議論。宴会芸は世界を変えることができると示してくれたことだ。
君たちは意見を戦わせて、宴会芸について、ともに考える力を見せてくれた。
どうもありがとう。
2018/4 中延会館にて
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