見出し画像

中性的な人間

はじめに

私は中性的な人としか仲良くなれない。
そして、私自身もそのように生きていくことを重要視している。

女らしい美しさと男らしい強さ、この両方を持った人間が好きだし私もそうありたいと思っている。

この中性というのはルックスの話ではない。

その意味も含め、今回はそれについて語っていく。

どんな人間もいずれキモくなる

男というものはほとんどが思春期以降にキモくなる。

キモくなり、その割に無駄にプライドが高く、知能の割には傲慢なものが多い。

そして私もその男だ。

女というものはほとんどが3~40代以降にキモくなる

老いてキモくなっていくにも関わらず、まだ私は美しいと美にすがり付き、プライドだけ一人走りしている者が多い。

最近は整形やメイク、脱毛など様々な美容が進化しているので、その時期を遅らせることはできるかもしれないが、生涯で全く老いのない人間はいない。

つまり、人間はメスもオスもいずれキモくなる生き物なのだ。

だから私は、親友や恋人など、長期的な関係を作るとき、見た目以外の魅力を重要視している。

それが、私のいう「中性的な人」なのだ。


男の賞味期限

先ほど述べたように、男は思春期から、美しさを失う。
私は中学生の前半までが人生で一番モテた。

当時、男子校の私は、女のように扱われることが多かった。
また、当時、男子校に女が変装して入るというドラマが流行ったせいで、私のことを女だと誤解した輩から危険な目に遭うことが幾度かあった。

女として扱われる点のメリットは愛されていると感じる機会が多かったことである。告白されたり、常に周りに人が集まり、大事にされていると感じることが多かった。当時の私は寂しいと感じることはほとんど無かった。

女として扱われる点のデメリットは危険が多かったことである。
無理矢理に襲われた記憶はトラウマとなりしばらく引きずっていた。

こういうことの積み重ねで、何となく性的目的で近づいてくる人はわかるようになった。そういう人はいい扱いをしてくれるので利用できるだけ利用していた。

今思うとパパ活みたいなことをオスの中1がしていたのかもしれない。

しかし、毛が生え、声が変わり、体も変化するとみんなの扱いが変わり、そのようなことがほとんどなくなった。

つまり、私は思春期あたりからキモくなったのだと自覚している。


そして、自分のことを可愛いと思っていた時期はどんどん可愛くなったが、自分のことをキモいと思うようになってからは、どんどんキモくなったように感じた。

それまでは怖い先生も、先輩も、同級生も、ちょっと可愛くしとけば全て私の思い通りに動く。そんな「男って馬鹿だな〜」と思っていた人間が思春期を迎え「そういえば俺も男だったわ」と気づき、絶望した。

中2〜高1あたりまで精神状態が悪かったのはこれも大きな原因の一つだと思っている。

しかし、その絶望も女として扱われてきた男が、男としての生き方を身につけ、その変化を受け入れるためには必要な時間だったと思っている。

「女」じゃなくなる女

大学生の頃、バイト先の主婦の40代の女性に「お金を払うから体の関係になってくれないか?」と誘われたことがある。
(当時、私には恋人がいたし、向こうも子持ちで、既婚者なので断った)
しかし、ご飯に行き、話だけは聞いた。
すると彼女は子供ができ、子育てをし、旦那も仕事ばかりで、子供ができてからは仕事と子供の教育のことばかりで女として見られることがなくなった。それがすごく寂しくなり、何のために生きているのかわからなくなったのだという。

私はその気持ちが少し分かったような気がした。
私の場合はショタからオスになったとでもいうのか、その若く愛される期間を失った感覚に似ていたからだ。
彼女の場合はメスからママになったのだ。

確かに、女として扱われなくなるというのは体も心も寂しくなるものである。

しかし、人生の中で、愛されていたことがあるというのは、愛するということも知っているのだと思う。
賞味期限と言われるが、オスの私と違い、メスの彼女はその期限が長い。
その分、いろんな人に大切にされ、愛を注がれてきた期間があるというのはそれだけの愛し方を知っているはずなのである。

だからこそ、今度は自分がその愛を子供や、旦那や大事な人に注ぐ側になり、「愛される側」から「愛す側」へ、その変化を受け入れることが大事なのだ。

また、彼女は「愛されなくなった」のではなく、「愛の形が変化した」のだ。

彼女の旦那さんも、彼女の性的な部分ではなく、他の部分に魅力を感じているから一緒にいる、さらに、息子というものは母を問答無用で愛する生き物だ。
そこに目を向けることができれば愛されなくなったとは思わないだろう。

息子は中学受験をしていると言っていたので、中学受験を経験した身として、私の中学受験の時の話をした。
母の喜ぶ顔がかなりのモチベーションだったこと。

母のサポートがなければ絶対に合格できなかったこと。

中学受験は母と息子の二人三脚であること

最後に、私に体の関係で払う金があるなら、それを息子にすき焼きでも何でも美味しいもん食わせるのに使ってほしいと伝えた。

その後、彼女とはバイトで会うのだが、やはり何も無かったように接することは難しく、気まずくなったので私はそのバイトをやめた。


人間関係はコンテスト


私の受賞者は少ない

私は親友が1人、友達が1人いる。知人になれば結構多い。

人間関係というものはお互いの審査基準に合格した者が築けるコンテストのようなものだ。

人々はお互いに友達賞や恋人賞を与えたり、与えられたりして関係を築く。

もちろん、私は恋人賞をあげたが、向こうは友達賞止まりということもある。

私は繊細な故にその審査基準が多く、厳しい。

以前の記事、「声量と知能は反比例」で述べた知能の低い人の特徴に当てはまる人は基本NGである。

例えば、まず、「貧乏ゆすりをしない人」

この項目だけで日本人男性の半数以上が私の友人候補から消える

それに加え、声デカい、くちゃくちゃ食べない、咳をするときに手を当てない、タイピングがうるさい、喫煙者など、このような項目に当てはまる人間を外していくと、ほとんどの男は私の友人候補から消える。

私の言う「中性」

私の親友は中性的である。

この中性的というのは「男らしさ」と「女らしさ」の両方を性質を兼ね備えた者のことを言う。

「女らしさ」というのは「美しさ」である。

この「美しさ」とはルックスの話ではない。所作や心の「美しさ」である。

それ故、自分の美貌をひけらかそうと、周りへの配慮に欠けていれば、その者は醜いのである。

身なりを整え、周りへの配慮に足る思いやりの所作こそ、「美しさ」である。

「男らしさ」というのは「強さ」である。

この強さとは、パワーの話ではない。生き抜く力の「強さ」である。

むしろ、一般的な「漢らしさ」は今の時代必要なのか?と思っている。
最近は脱毛をしたり、メイクをしたりする男が多い。これは社会全体が「漢らしさ」を必要としなくなっているのだ。
しかし、私は、「雑魚を振り払う最低限の力強さ」は今の時代も必要だ。

それ故、ただモテるために筋トレをして、「漢らしく」なっていても、他に何の目標もなく、スキルを磨いていなければ、その者は私のいう「男らしさ」は無く、弱いのである。

目標を持ち、それに突き進む姿勢こそ、私のいう「男らしさ」であり、「強さ」である。

カマキリはメスがオスを喰う、人もまた然り

私は小学生の頃、オオカマキリのメスとオスを飼っていた。
毎日コオロギやバッタをとってきて、食べさせていた。
一瞬で獲物を狩り、命を食すその姿にいつも惚れ惚れしていた。

ある日、起きていつも通り、カマキリ達におはようを言いにいくと、
オスの姿が無かった。メスだけがおり、オスの羽のようなものが地面に落ちていた。
メスがオスが喰うことは図鑑であらかじめ知っていたが、それを本で読むのと、実際に目の当たりにするのとでは、小学生の私には私には応えるものがあった。

そんなオスの残骸を見て、悲しそうに座りこむ私に、
母はこう言った。

「人間も同じだよ。」

当時は意味がわからなかったが、この世はカマキリも人間もメスを中心に回っているのだと今はよくわかる
オスはメスが命を繋ぎ、生きていくために、メスの養分となるのだと。

私は知識も技術も、金も地位も、筋力も今後もっとつけていく、メスから見ると喰いがいのある、十分な栄養のあるオスになっていくのだろう。
喰われないようにするには一人で生きていくのが良いのだろうか、、、
答えはわからない。


長期の関係を築くには


この「男らしさ」「女らしさ」の両方を兼ね備えている人でなければ、私は長期間の関係を持つことはできないのである。

元カノ達は私の言う、「女らしさ」を兼ね備えていた。
所作が美しく、人に配慮のある行動が取れ、その上、ルックスも良かったので最初は一緒にいるのが楽しかった。

しかし、休日はYoutube、ゲームをして過ごし、人生の目標はない。そんな姿をずっと見ているとそんな彼女にも徐々に物足りなさを感じてくる。

つまり「男らしさ」を兼ね備えていなかったため長期の関係は築けなかった。

逆に

高い目標を持ち、直向きに努力していた男がいた。
私の言う「男らしさ」を兼ね備えていた。

しかし、食事ではくちゃくちゃと、貧乏ゆすりや咳払いがうるさい。

「女らしさ」を兼ね備えていなかったため、自然と一緒にいることを避けるようになった。

それ故、私は長期で関係を気付ける人がほとんどいない。

そんな私に親友がいることに、運命を感じている。
数少ない通過者である彼が、彼も彼なりの審査基準で私を通過させてくれていると思うとそれはもう奇跡である。

無視した人

私は本当に無理な人は、その人を知る以前に拒絶している。

私がコワーキングスペースにいた頃、タイピングがうるさく、鼻は噛まず啜り続け体臭がキツく貧乏ゆすりをし、咳払いをしている人がいた。

「ゴキブリは一匹見つけると無数にいると思え」
と言うが、人間も、
「嫌な行動を1つ見つけると、他の嫌な行動も沢山見つかる。」

私はこういう人間に集中力を削がれることが非常にストレスであった。

すると彼は私のPC画面を覗き込み、「すげぇ〜!何作ってんの?!」と話しかけてきた。いきなりタメ口も私の審査基準に引っかかった。

私はヘッドホンをしていたので聞こえないふりをし無視した。

ヘッドホンして滝の音をYoutubeで流してもうるさいお前はもはや公害である。

このように、マナーの悪い者は会話をする以前から私に嫌われているのである。


コンプレックスという原石

ここで言及しているのはマナーの悪さであって、ルックスは重要ではない。

むしろ目標を持って生きている人間は大体ルックス、環境等のコンプレックスを抱えていることが多い。

環境のコンプレックスは仲良くならないとわからないが、ルックスのコンプレックスはわかりやすい。

私はルックスの良い人と話す時は基本的にあまり長期的に仲良くなれることを期待していない。

例えば、大学生の頃、同級生にモデルの女がいた。
彼女は当時の私の目標とする道に近い人と飲み友達らしく、「会わせてあげようか?」と言われ、飲み会をセッティングしてもらったことがあった。
しかし、その人にとって彼女は性欲の捌け口としてしか思われておらず、クソみたいな飲み会だったのを覚えている。相談などできるムードではなかったので、すぐに帰った。
少しはまともな会話ができると期待した自分がバカだった。
あれを対等の関係だと思い、色んな男と飲み歩いているなんて、とても愉快な思考回路の持ち主だと思った。

逆に、ルックスや環境にコンプレックスを抱えている者は過去の屈辱や憎しみをうまく向上心に変えている者が多い。

しかし、仲良くなろうとしても、彼らは過去の経験から人に期待しない。
つまり、群れようとしないのだ。

だから私は友達が少ないのだ。

コンプレックスでも、デブと喫煙者は嫌いだ。

デブは「私は自分の体型も維持できないくらい怠惰な人です」

喫煙者は「私は一瞬の快楽のために、お金と健康を犠牲にするリスク管理のできない人間です」

と言葉を解さずに自白しているようなもんである。

だから基本的に私は喫煙者とデブは嫌いだ。

まとめ

ここまで多く語ってきたが、結局のところ人間はいつかキモくなる生き物である。

だから長期的に良い人間関係を気づくには見た目以外の魅力を見つけ、それを愛することができる人と関わるべきである。

その見た目以外の魅力というものが私のいう、「男らしい強さ」と「女らしい美しさ」である。目標を持ち、それに努力しスキルをつけるとともに、所作は美しく、他人を慮った行動を取れる人間であること。

この二つを兼ね備えた「強く美しい人間」こそ私の理想とする親友、恋人であり、私自身の生きる指針であるのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?