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三浦しをん『愛なき世界』(中央公論新社)

三浦しをん『愛なき世界』(中央公論新社)を読んだ。嗚呼、なんて幸せな読書の時間だったことだろう。ページをめくる手が止まらず、でも、物語が終わってしまうのが勿体ない。

三浦しをんの小説にはずれなしだが、わたしは何かに打ち込んでいる人の話が特に好きな気がする。直木賞とった『まほろ駅前多田便利軒』シリーズも勿論面白かったけれど、それよりは『風が強く吹いている』(箱根駅伝)、『仏菓を得ず』(文楽)、『星間商事株式会社社史編纂室』(社史)、『舟を編む』(辞書編纂)、『神去なあなあ日常』(林業)などの方が圧倒的に好き。そしてここに来たのは、生物科学専攻大学院の物語、『愛なき世界』だ(この先ネタバレ含みます)。

東京大学大学院理学系研究科生物科学専攻の植物学の研究室がこの小説のモデルだ。そこに、研究のことは何もわからない、本郷の食堂で見習いをしている調理師の若者藤丸ことフラ丸が狂言回しとして入ってきて、素人の読者にも、研究室の人たちが何をしているか、少しわかるようにアプローチしてくれる。藤丸は、博士課程の大学院生本村に「好きです」と言い、3日後にふられるのだが、その時の本村のセリフが本のタイトルになっている。

「植物には、脳も神経もありません。つまり、思考も感情もない。人間で言うところの、『愛』という概念がないのです。それでも旺盛に繁殖し、多様な形態を持ち、環境に適応して、地球のあちこちで生きている。不思議だと思いませんか?」「だから私は、植物を選びました。愛のない世界を生きる植物の研究に、すべてを捧げると決めています。だれともつきあうことはできないし、しないのです」(p.92)

5章に分かれた本の第1章は藤丸に主たる視点を置いて進み、2章以降は本村に視点が据えられ、植物学を専攻する大学院生と、ポスドク、助教、教授の生活が緻密に描かれる。知らない世界の物語だが、冗長でもなく、読むのが面倒で読み飛ばそうという気にもならない。シロイヌナズナという、モデル生物として多くの実験に使われる植物を用いて、本村が行う実験の過程と、それを行おうと思うに至ったきっかけとなる仮定が描かれ、あまりの細かさと道の遠さに気が遠くなりそうになるが、途中で大きな挫折に見舞われながら、一定の成果につながる様子は、感動なしには読めない。そして、全く実験の内容がわからない藤丸が見ても、美しいきらめきを放つ、植物の細胞たち。

藤丸が働く「円服亭」とその周囲の人々、本村の属する松田研究室と、同じく植物学を専攻する諸岡研究室、本村の家族、多くの登場人物が血肉を持って描かれ、多くのくすぐり、伏線に笑い。研究と関係のない植物までもが愛おしく描かれる(本村のポインセチアと諸岡教授のイモが特に好きだった)。教授秘書の働きとか、外部の大学から院試を受けて研究室に入る過程とか、経済状況とか、実験に使われる装置とか、研究職についてちょっと知っている人なら膝を打ちそうなトリビアの数々。そして挿入される円服亭の厨房の美味しそうな描写。物語の最後で、他大学も招いての合同セミナーを運営する様子なども描かれる。

物語の構造は割と単純で、最後もあっけらかんとしたハッピーエンド(藤丸は愛なき世界には敵わないままだが)だが、They lived happily ever after.的な余韻が心地よい。何か夢中になれるものを持つことの幸福を教えてくれる、三浦しをんの新たな福音だった。

ちなみに、数年前に読んだ『植物は〈知性〉をもっている 20の感覚で思考する生命システム』(ステファノ・マンクーゾ (著), アレッサンドラ・ヴィオラ (著), マイケル・ポーラン (その他), 久保 耕司 (翻訳))(NHK出版)という本のことを思い出させてくれる読書でもあった。植物へのアプローチは色々だ。

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