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十章(2)全国中学高校教師英語弁論大会 

同じ頃、K女子高校のG英語科主任から、「弁論大会」に出てくれる人は いないかと英語科の教員8人に呼びかけられた。私は『・・引揚げ回想記』を書いている時に、心にひっかかっていたことがあったので、それを書いて話してみたくなって、手を上げた。他にはだれもいなかったので、私が出場することになった。

英文が出来上がった時、英語科仲間のH先生が、彼女のアメリカ人の友人に1度読んでもらいましょうよ、と言ってくれて預けた。すると、返ってきたコメントの中に、この母上の気持ちは her last stand という言葉を使えば、ぴったりですね、と英語で書いてくれていて、私は初めて last stand を辞書で調べてみた。当時のどの辞書にも載っていなかったが、stand という名詞に「抵抗・防御・立場」という意味があることを知って、漠然とだが掴めたような気がした。

タイトルは The Bonfire in the North Korea (北朝鮮での焚き火)とした。私が5歳の時に、私の一家が父の勤める〈鎮南浦商工学校〉の官舎から、敗戦のため追い出されることになった。母と兄たちは、狭い引越し先へ持ち出せない品々を、庭で大焚き火を燃やして、焼き尽くしていた。私たち4人姉妹の膨大な数の〈雛人形・抱き人形・手造り人形〉もすべて燃やされてしまった。5歳の私は、応接間の窓から涙を流しながら、それを見つめていた。 その時、庭の垣根のすきまから、たくさんの白いチョゴリの袖が、ひらひらと動いていて、何とかして転がって来た品を拾おうとしているのが見えた。(庭に入り込んでまで取ろうとしなかったのは、きっと父が日韓学生が通う「商工学校」の教員であったため〈師への敬意〉と遠慮があったためだったのだろう)

私は「燃やしたりしないで、どうしてあの人たちに上げないの?上げてよ」と、母に言いたくてならなかったが、虚弱でオネショばかりして、母を手こずらしては、毎日のように罰として、食事抜きで応接間に閉じこめられたりし、反抗的に無口を通していた私には、そんな言葉を母に声かけすることはできなかった。あれはどういう気持ちでやっていたの?  というのが、長年私の心にかかっていたが、母にはそれを聞けないままだったのだ。

Her last stand と言えるほどに、母にとっては「日本人の誇りとして、敗戦
の惨めさを認めたくなく、長年支配下にある人たち、と見ていた彼らに渡すくらいなら、燃やした方がまし」という、「最後の抵抗であり、誇りと意地」の思いだったのだ。

弁論大会当日、全国から50人近い出演者が登壇し、その日は成績15番目までが、翌日の本選でもう一度演ずるよう言われた。私は15人の1人となり、翌日も出演することになった。

その日、帰ろうとした私を、審査委員の1人で、アメリカから招かれた大学教授、と紹介されていたP先生が私を呼び止めて、廊下の片隅で、小声で こう言われた。

「私は大学でスピーチの講座を担当しているが、あなたのスピーチ内容を ぜひ、私のスピーチ特集本に入れさせてほしい。明日までに今日のスピーチの原稿をタイプして、私に下さい。あなたのが、今日の中で一番よかったが明日の結果がどうなるかは、わからない。私の本には、必ず載せますから、どうかお願いします」

驚いたが、喜んでその夜、丁寧にタイプを打って、翌日持参した。その日は昨日よりも、審査員が1人増えていて、70代に見えたその人が、威張り散らして、まわりの審査委員たちに、盛んに話しかけていた。

そして、最後に結果が出てみると、最優秀賞をもらった人は、ごく平凡な「自転車に乗ろう」とかいう内容だったが、賞は「ブリタニカ百科事典」 のひと揃いで、大変な量の賞品に見えた。私は語れただけで満足していて、順位や賞品には、興味も期待もしていなかった。

P先生が私に微妙なウィンクを送ってくれたのが、見えた。その時、審査 委員の1人だった人が、私に近づいて来て、こうささやいてくれた。

「実はあなたが本当は1位だったのですが、今日新しく加わった文部省からのあの方が、あなたの話題の選び方に0点を付けられたので、2位になってしまったのです」と。「0点」とは、と驚いてしまった。

その時、その文部省からの70代の方が、私に目を留めて、手招きした。 近づいて行くと、こう言われた。
「あなたのは話し方も、発音も文章も実によかったが、北朝鮮を題材にするとは、問題だ。今、日本は北朝鮮を国とは認めていないし、国交樹立もしてませんからね」

はあ、そういう理由だったの! と驚いたが、私は何も言わず、その場を離れた。なぜあの時、真っ向から反論してやらなかったのか、と今でも悔しい思いがする。

「敗戦まで、あそこは日本の土地とされ、私は実際にそこに暮していたのですよ。日本人が朝鮮にも満州にも何百万人と住んでいたのです。その時代の事実をそのまま取り上げて、何が問題ですか? あなたは歴史の事実をお忘れなのですか?」と。静かな祝いの場を、議論や口論で乱したくなく、黙してしまった自分が腹立たしく、情けない。

でも、アメリカのスピーチの教授が、著書に残してくれたことと、母の当時の思いを知ることができたのは、この時の収穫だったと思っている。 

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