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イエテ◯ソラへ (19) ☆ バターの小島 ☆

 壁一枚へだてたすぐ近くで、おいしそうに食べる音が続いている。吹き抜けている風にのって、海苔の匂いがただよってきて、わたしのおなかがクウと鳴った。あわててうつむいて、おなかを押さえた。アメでもしゃぶっていたいけれど、黒バッグのファスナーを開ける音を、聞かれてはまずい。
「まったくよく食うな。そんなに腹がへるのか」
「うっす」
 彼はぐふっと自分で笑っている。口いっぱいほおばったままの、くぐもった声で、言い返した。
「昼がラーメンじゃあ、腹へりっすよ」
「ラーメンを食いたがるのは、おまえじゃないか。ま、かみさんは弁当じゃなく、にぎりめし三つ作るだけですんで、助かってるけどな。今日の中身は何だ?」
「シャケとこんぶと梅干し。オレ、梅干しが、サイコーっす」
 梅干しのにぎりめし! ああ、やっぱりつばが出る!

 若いほうは、どうもこの〈おやしき〉の中が気になるようで、もぐもぐ音をたてながら、障子の中をのぞいたらしく、障子のきわから声が聞こえた。
「すげえ、床の間がちゃんとついてっすよ。丸窓まである」
「こら、のぞくんじゃねえ。よけいな気を起こすんじゃねえて。早いとこ食っちまえ」
 親方は何かをごくごく飲むと、缶を置いて荷物をまとめだしたようだ。
「始めるぞ。ほら、さっさと来い」
「ふーい」
半分不満の声なんだ、あれが。わたしは吹き出しそうで、首をすくめた。

 二人の仕事は、永遠に終わらないみたいに、長く長く感じられた。歌声も続いていて、そうじという仕事を、まるで楽しんでいるみたいだった。
 わたしは空腹に耐えられなくなって、二人が外にいる間に、黒バッグの中から、クロワッサンをちぎっては口に運んだ。たちまち二つなくなって、こんどはメロンパンもたいらげた。味わってるゆとりはなかった。麦茶も残りの一滴まで飲み 干した。
 最後にアメを口にふくんで、やっと人心地がついた。とはいうものの、障子をしめきって、風の通らなくなった、しかも積み重ねたふとんの陰では、空気が動かず、汗まみれだ。汗のせいか、のどのあたりがかゆい。足先の痛みは、まだ少 し残っていた。

 わたしは目を閉じて、この現実から遠ざかることにした。
 まず浮かんできたのは、わたしが2時間ほど前に描いた〈ひとつながりの人物画〉だった。2匹のカエルの話を、伝え伝えしてきた人たち。そして、その話をおにいちゃんに伝えた、アキノ先生の問いかけの言葉。〈人間にとっての、バターの小島って何かしら?〉
 自分にできることをやり続けて、その結果得られるもの、だって。そうだとしたら、わたしは今まで何ひとつ、続けてやれたものがない。
 ピアノは最初の一年でやめた。今日の練習をちゃんとやったの? と毎日ママにせかされて、うんざりだった。強制されてるみたいで、ちっとも楽しくなかった。バイオリンも、英語も、踊りのバレーも同じ。
 水泳は5歳から4年生まで続いたけれど、おにいちゃんの勉強がいそがしくなって、やめたものだから、わたしもやめてしまった。
 でも、水泳ができたおかげで、麻美たちと強いきずなができたようなものだ。1年生の夏、プールで泳げない麻美たちに、わたしが毎日根気よく教えてあげて、それからほんとにほんとの友だちになれたのだから。
 ただひとつ、続いていた絵の塾は、大好きでやめたくなかったのに、6年生の初めに、むりやりママにやめさせられた。中学受験の時間が足りないからって · · ·。

 でも、おけいこごとだけなんだろうか、続けることって。
 わたしのあの受験勉強は? ノルマや宿題に追われて、暗記が多くて、重荷でおしつぶされそうで、いやいやだったから、失敗してほっとした。
 それでもたまに、ああ、そうなんだ、と漢字の意味がわかったりすると、うれしいこともあった。
 もっとゆっくり楽しみながら、納得しながらできれば、心に残って、本物の知識になって、積もっていくのかもしれない。

 ふっと思い出した。この屋上から飛び降りた人たち! 生きることそのものを、12,3歳の短い年月で、捨ててしまった人たち。どんな仕事をするにしても、どんな生き方をするにしても、生き続けさえすれば、何かきっと〈バターの小島〉 を、残すことができたはずなのに · · ·。

 お向かいのあのおじいさんは? 言葉も耳も半身も、不自由になっていても、いっしょけんめい今もがんばっている。リハビリをして、野菜に水をやって、育てて収穫して、それが今のおじいさんにできることなんだ。
 何度ころんでも、なんとか起き上がって、またリハビリしてた。わたしはそれを見て、わたしもがんばろって思えたもの。どんな姿をしていたって、生きてそこにいるだけで、きっと意味があるんだ。
 あ! それから、今働いているあの人たち! ここでバタバタ働いて、そのあと 二つも、仕事が待ってるはず。ああして毎日を過ごしているんだ。それで、何十年かたってみれば、その人らしい〈バターの小島〉ができるんだ、きっと。
 たとえば · · · ええっと、家族とか、仕事仲間とか、弟子とか、技術とか、かな? つまり、人とのつながりや、何かの技、ってこと?
 それなら、人間にとってのバターの小島は、〈人生そのもの〉なのかな?


★ 麻美 ★
 今日はおばあちゃんに頼んで、夕方の手伝いは免除にしてもらって、4時半にシャガールへ。このノートもいっしょに。得意の早わざ、走り書きで、実況放送するね。
 朝子とクミに、リフォーム中の家のこと話したさ。二人とも、ぜったい泊まりにくるって。その時は、ユカもいっしょだよ。

 それより、大事件発生だよ!
 なんと、ユカ、あんたの武春兄さんとおじさんが、〈シャガール〉に現われたんだ! 岡山の窯場から急いで戻って、あたしんちで聞いて、とんできたんだって。
 ユカのママは、具合が悪くなって、おじさんとこの奥さんと、近くの病院へ行ってるけど、薬をもらったら、あとで合流するって。
 武春さんに、ユカのこと知ってるかぎり話したよ。ついでに、あの〈なぞのメール〉を見せたんだ。
 武春さんはすぐに手帳に写して、窓ぎわのテーブルでひとりで解いてる。
 おじさんはコーヒーを頼んでから、頭を抱えてじっとしてた。身動きもせずに。それから、ポツンとこう言ったんだ。
「やっぱりねえさんの運命なんだなあ」って。

 あたしはカチンときて、おっきな声で言ってやった。
「運命なんて、かんたんに言わないでくださいっ!」
 おじさんは目を上げて、あたしを見返したの。意味がわかんないって顔して。だからこう言ってやったんだ。
「あたしんちの兄は重度の身障者で、歩けないし、口もまともに聞けないけど、それが、兄とうちの家族の〈運命〉だなんて、思いたくないっ! だれも何も、悪いことした覚えはないのに! 初めから決まってる運命があるんじゃなくて、自分で選んで、自分で作っていくのが、運命じゃないんですか」
 自分でもシリメツレツって、思ったけど、うまく言えなくてあせったよ。

「そうだなあ。ビルのそばを歩いてたら、上から落ちてきたものに、ぐうぜん当たって、命を落とすこともあるよね。ぼくは〈運命〉には、〈天運〉と〈自力運 (じりきうん)〉 とある気がしてるんだ。」
 ふん、そんなのどうだか、って、あたしは疑いの目で見たらしいよ。おじさんは自信なさそうに、ひるんだ顔になったけど、こう説明してた。

〈天運〉は、人間にはどうしようもできない、災難みたいなもの。神さまか何か大きな力の配慮で、人間にふりかかるもの。〈ぐうぜん〉とも取れる。
 一方〈自力運〉の方は、分かれ道に来た時、自分から決断して自分で選んで、道を切り開いていくもの、とおじさんは考えてるんだって。
 ユカのママは、子どもの時からその〈自力運〉の人だったって。おとなしくてがまん強いユカまで家出したと、電話で知らされてから、おじさんはずうっとそのことを、考えてたんだって。

 ユカのママが、二人の子に離反される元になったのは、遠い原因になっているのでは · · · と思える大きなできごとが、昔あったんだって。
 8歳年下のおじさんは小さかったから、よくわかっていなかったけど、今、思い当たる気がするんだって。そのあと思いがけない話を、聞かせてくれたんだ。

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