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イエテ◯ソラへ (13) ☆ 発見 ☆

 すっかり日も暮れて、夕食をすませなくてはと、黒バッグを物置からベッドの上に運んだものの、何を食べるか迷った。
 レトルトカレーや、パック入りのごはんが、目の前にあるのに、水も湯もなくて、食べられないなんて、じたばたわめきたくなる。
 サラダパンやあんドーナツ、クリームパンなど、暑さに弱そうなパンを、夕べから3回、むりやり片づけすぎて、パンにはちょっと手が出ない。
 シリアルを、ぬるくなったオレンジジュースと、麦茶で流しこんだ。
 チーズをしおれたレタスに包んでみたら、ついさっきのきゅうりの新鮮さには、とてもかなわないけど、なんとか食べられた。
 とけかかってなまぬるいプリンも、二つ平らげて、仕上げに、これもとけ始めている、チョコレートを口に含んで、ごちそうさまにする。

 外の暗さに安心して、背伸びしながら、屋上を一周してみた。向かいの飛鳥ビルの屋上は、カイヅカイブキの垣根が、ぼってりと重く、黒々と広がって、静まり返っている。
 母屋のこちら向きの窓の、上の方が、ほうっと明るいのは、あのおじいさんが、テレビでも見てるのだろう。
 夜空を見上げると、半かけのお月さまの周辺に、ちらほらとうす色の星が、散らばっている。
 ああ、やっと丸一日が終わったんだ! 24時間って、なんて長いの! なんてどきどきの、一日だったことか! たっぷり生きてるって感じ!
 何が起こるかわからないけれど、こんなふうに、あと2日続けられたら、わたしの『マンガ版家出物語』は、きっとびっしり埋まるだろうな。あのスケッチブック一冊では、どうみても間に合いそうもない。
 そうなったら、『ロビンソン・クルーソー』の白紙に、描きこむことにしよう。
 そうだ、さっき食べた、きゅうりとトマトの絵から、始めなきゃ! あのおじいさんが、あんなにがんばって、届けてくれた姿も、まだ描いていない!

 わたしは急いでへやに戻った。
 2段ベッドによじのぼり、たんすの陰にうずくまると、スタンドの明かりを、豆電球から 60 Wに変えた。枕もとのスケッチブックと4Bで、さっそく始めようとした。
 でも、いつもそうなるのだけど、ついこれまでに描き上げた部分を、最初からめくってみることになった。
 それはわたしの大冒険の実録、生まれて初めての、『裕香の家出物語』なのだ。しかも、マンガを描くのが好きといっても、今まで一度も、自分ひとりでは、まとまったものを、仕上げたことのないわたしの、生まれて初めての〈大作〉の 取り組みでもあった。

 桜町中学の、プールでおぼれかかって、麻美と用務員のおじさんに、車で送られてきたのが、昨日のお昼前のこと。
( このショボンとうなだれたわたしの姿、もうちょっと、前かがみにした方がいいな··· )
 わたしはへたくそな〈絵と説明文と吹き出し〉をたどりながら、それでも、あちこちでドキドキし直していた。
 隣のビルから、ぐうぜん水が降りそそいできて、バンザイと思った時!
 管理人さんが屋上に不意に現われて、ドッキリした時!
 この屋上から飛び降り人たちの、ユーレイが出るかも、とおびえたこと!
 そして、隣のビルのおじいさんがころんで、なかなか起き上がれなくて、けんめいに声をかけたこと · · ·。
 初めてこれを読んだ人は、裕香といっしょになって、ハラハラしてくれるかな? そして、これはほんとにほんとの〈夢〉なんだけど、これが一冊の本になるといいなあ!

 ふふ、ばっかみたい。この絵じゃ、まだまだムリだって! ほんものの『星座伝説』のマンガ本の絵は、線がなめらかで、迫力があって、すみからすみまで美しいもの。いつかあんな絵が描けたらなあ!
「夢だけじゃ食べていけないのよ!」
 ママの声が聞こえる気がした。ふん、だ! 変な時に出てこないでよ。せっかくの夢をぶちこわさないで!

 そう言えば、ママは今頃どうしてるだろう。もう潔おじさんに連絡がついて、 武春兄さんにも伝わってるかな? 麻美に送った、ケイタイメールの暗号は、解けたかな?
 気にし始めると、気がかりがどっと押しよせてきて、わたしは頭をはげしくふった。
 こうしてはいられない、急がなくちゃ。

 やっと、新しいページにたどりついて、わたしは描き始めた。
 きゅうりなんてカンタン、カンタンと思っていたのに、あのとげとげのある、イキイキした、おいしそうな感じを再現するのは、意外にむずかしい。
 ラインと立体感がうまく出ない。あんなにがつがつ食べる前に、ちゃんとスケッチして、描いておけばよかった! やっぱり、ようく観察しなくちゃいけないんだ。
 何度も描き直して、やっとなんとか、きゅうりとトマトができあがった。
 それから、隣のビルのあのおじいさんが、物干しざおを、こちらのビルに伸ばしてくれた、あの場面にも手こずって、紙を何枚もむだにして、なんとか仕上がる頃には、スケッチブック一冊が、終わりになってしまった。

 わたしは兄さんの本棚から持ち出した、『ロビンソン・クルーソー』の見本版を取り出した。かなり分厚くて、300 ページは超えそうな、大ぶりのものだ。
 印刷されているのは、初めの数ページだけだから、思い切り描けそうだ。それに、スケッチブックより、ずっと上質で地厚の、真っ白なページに描けば、絵がうまく見えそうな予感がして、わくわくした。
 ところが、何げなくまん中あたりを、パッと開いたとたん、大きな文字が、目に飛びこんできた。

〈ちっきしょー!〉

 胸がドキンとはねた。右から左のページいっぱいに、なぐり書きだ。えんぴつがそこで折れたらしく、紙に穴があいている。
 次をめくると、さらに過激な言葉が飛び出した。

〈死ねっ!〉

 わっ! ひどっ! 胸がますますとびはねる。

 次のページもその次も、紙幅 (かみはば) いっぱいに、ののしり言葉が、これでもかと続いていた。
〈くそったれ!〉〈ええかっこしい!〉〈くそばばあ!〉〈こんちきしょー!〉〈石頭!〉〈時代遅れ!〉〈二枚舌!〉〈うそつき!〉〈くそっ!〉
                                         武春兄さんだ! こんなところに、書き散らしていたんだ! 一年前の、あのわめき声が聞こえる気がする。そう言えば、わめいていたのは、もっと前からだ。
 中学二年くらいからだったか · · ·。爆発する感情を、兄さんはこのノートに、ぶちこんでいたのだ。こうやって、自分をしずめていたのか · · ·。
 次をめくると、文字は大小乱れてはいるけれど、少し文章らしくみえる。

《ちくしょう! なんでこうイライラするんだ。何が気に入らないのか。考えてみろ! 言葉にして、ようく考えてみるんだ!》

 また次をめくると、もう少し文が長くなっていた。
《子どもは親を選べない、とは、本当か? ちっ! 疑ることから始めてみようと思ったのに、実際、選べやしないじゃないか。たしかに、あれがオレの存在のもとであり、オレの前に立ちはだかる、うるさい存在であることも否定できない。 考え方がまるで違う! どうすりゃいいんだ? やつあたりするほかないのか?》

 兄さんの心の中をのぞき見するようで、イケナイことをしている時の、うしろめたさがあった。それでも、魅入られたように、わたしはページを開かずにはいられなかった。
《やっちまった!とうとう大あばれしちまった。気がついたら、ソファも花びんもテーブルの上の、食器も何もかも、飛び散って、がらくたになっていた。それで、すかっとしてりゃ、気がすんだろうに、あいつのわめき声のせいで、ますますカッカした。もっとやってやれと、やけくそになって、電話線を引きちぎろうとしたら、裕香の目と合っちまった。べそをかいてふるえてる。オレは反射的に、へやを飛び出した。おじさんちに行くしかない》

 ああ、あの時からだ。兄さんがひどくあばれだしたのは。飛びかうののしり言葉から察すると、始まりは、兄さんの友だち関係のことらしかった。それと、進路のことも関わっていたらしい。
 わたしはソファにもたれて、マンガに読みふけっていて (その日がマンガを読んでもいいと認められている、水曜日だったから)、ママと兄さんとの口げんかは、いつものことと、聞き流していた。
 ガッチャーンという、何かが壊れる音で、わたしは顔を上げた。
 兄さんは蒼白の顔で、あばれるだけあばれまわると、わたしを見て、どきっとしたみたいに、飛び出して行った。
 それきり、その夜は帰ってこなかった。
 その時から、何度かそんなことが、くり返されるようになって、とうとう去年の夏に、潔おじさんちに移って行ったのだった。

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