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どうせなら精神

冬はエネルギーの総量が低下する。
高2くらいからほぼ毎年お正月痩せなるものを発症し続けている。
例年のことを考えると誕生日をすぎた頃に突然あらゆる活力が湧いてくるはずだ。
それまでは背中を丸め土の下に潜む気持ちで粛々と生きようと思う。

しかし書き残さないとどうにも脳が気持ち悪いことがいくつかあるので羅列する。
何年か後に読み返して恥ずかしくなったり「いいこと言うじゃん」と思ったりするためでもある。
無理にでも活動しないとすべてが衰えるのでトレーニングのためでもある。


わたしは結構愛されているということ

仏頂面で本を読んでくるくる回るだけの子どもだった。愛されキャラなんて程遠かった。
いちばん仲の良かった子はとても愛想がよかった。よく笑いよく喋りよく動き、破天荒で天衣無縫で天真爛漫だった。ちやほやされていた。
羨ましかったし、あれが正解だと思ったから真似をするようになった。

「気にかけられたい心配されたい構ってもらいたい」という強い気持ちで生きていたら、気にかけられ心配され構ってもらえるようになった。
その結果の今だから、全くもって真の愛されキャラなんかではないのだ。

わたしが真似した彼女はわたしが彼女の真似をしているうちに社会に紛れる術を覚えた。
生きるのがうまいとはああいうことを言うのだ、と思うけれど、どうしようもなく足掻いてるだけのわたしをずっと見守って
「あんたは人生の達人だから大丈夫!」と送別会をしてくれる人や
「エンデちゃんの素直さが羨ましい」と言ってオススメの本を送ってくれる人や
文章を読んでくれる人たちがいたりして、
なんかこう、わたしってもしかしたら愛されてるのかなって。気がつけた。
あの子の真似して擬態しなくてもよくなって、ちょっと憑き物が落ちた。


人間は生きねばならないということ

これに書いた。
夜と霧を読んだのはもう何年も前だし、原文はまだまだ読めていない。
それでも毎日、程度の差はあれ自分の中で
「それでも人生にYesと言う」というフレーズがこだましている。
いつまで続くかはわからないし、わたしのことだからすぐに絶望して弱音吐いて布団にくるまって泣きながら自分に爪を立てるのだろうなと思う。
それでも刃物を持たず死の引力に抗えたらそれで御の字である。
人間は、生きねばならないのだから。

人が死ぬのは仕方のないことだと、あくまで前向きに捉えられるようにもなった。
生きててよかった〜!とかあの時死ななくてよかった〜!とは思えないし、死ねたなら死んでてもよかったよねとすら思う。
とはいえわたしは生きているのだから、できるだけ生きねばならないのだ。
死へのどうしようもない憧れは捨てられつつある。
自分の人生に向き合い、余力があれば他人のことも気にかけましょう。
朗代、遠くで見守っててね。


労働は心身に良いということ

まずもって毎日同じ時間に同じところに行くのが無理すぎるとか、働いている大人がみんなつまらなさそうだとか、そもそも働いてる人たちって何してるかわからないだとか、自分には何もできないだとか、
迷惑かけるし責任とか無理だしとか、ごちゃごちゃ言って、わたしは労働に向いてないと決めつけていた。

チョコレートを売るのも楽しかったし、クリニックのお手伝いするのもいっぱい褒められたし、子どもと遊ぶのもたくさん頼られて嬉しかったのにね。

大学を卒業して入院して退院したあの頃から、どこかに所属するというのはとても価値のあることだなとうっすら気がついていた。
ドイツに来てからは、日本にいたとき以上に不安定な生活をした。自由は苦しいと確信した。

それと同時に、労働すると規則正しい生活ができ、人から認められ、目に見える対価としてお金がもらえて、そんなにいいことある?!となった。
会社や雇用という仕組みを考えた人は天才である。

働くって、ハードすぎなければめちゃくちゃいいことだ。
そんな大事なことなんで誰も教えてくれなかったの、って思ったけど、若草物語でジョウたちのママも言ってた。
「はたらくことは健康にもよく、たいくつはしないし、わるい心も起らないものです。身体にも心にもよく、お金や流行ものなどより、精神力や独立心をあたえてくれます」
20年も前から、それを教えてくれる本に出会っていた。


わたしは「どうせなら精神」が強いということ

旅行なんてまったく興味がなかった。
大学生の頃もどこにも行かなかった。
杉並世田谷目黒中央千代田渋谷新宿から出たことなんてあったか?というレベル。
カナダもテキサスもハワイも嫌な思い出だらけだから、まして外国なんて。

それでもスイスに行きたいのとドイツ語の本が読みたいのと、どこか遠くに逃げたい気持ちで、気がついたらドイツワーホリを決めていた。

どうせならシベリア鉄道に乗って、どうせなら船で中国まで行って、
どうせならあの子と会って、どうせならあの子にも会って。
どうせならオーロラ観て、どうせならリヒテンシュタインにも行って、
どうせならあれ食べて、どうせならこれも試して。
どうせならどうせなら。

知らないうちにたくさん移動していた。
思えば日本にいてもそんな「どうせなら」ばかり積み重ねていた。
もちろん良いどうせならもたくさんあったけれど、
「それ、ほんとうにやりたいの?」というどうせならもたくさんあった。

偶然のどうせならによるハッピーもあるし、それらによって今のわたしが作り上げられてるわけでもある。
それでもたまには、有名だしとか珍しいしとか本当は高いしとか、そんなどうせならに惑わされず自分のしたいことだけ選んでみてもいいね。

お読みくださりありがとうございます。とても嬉しいです。 いただいたサポートがじゅうぶん貯まったら日本に帰りたいです。