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抽象概念の表出

小学生の頃から、読むのが好きだった気がする。

気がするというのは、褒められたくて読んでいたのか、好きだよね?!と言われて好きかも?!と思っていただけなのかわからないという、そういうこと。

読書家とはおこがましくて言えないけれど、本を、文字を、それなりには読んできたかなと思う。
そのなかで「わたしも…書いて、み、たい……な…」と思うことがなかったわけではないけれど、それこそおこがましくて。

書く人って特別だと思ってた。いや特別なんだろうけど、普通の人は挑戦すらしちゃいけないように思えていたし、あまつさえ「作家になりたい」なんて、言っていいなんて思えなかった。

だから、14歳くらいからは、そんな想いを抱えているなんて自分でも忘れてしまうくらいに隠して、潰してきた。
大学生の頃なんて、本当にすっかりそんな考えがあったことを忘れていた。

それでも、医療にお世話になりまくってる人生の中での医療的最大のターニングポイント、措置入院のときに主治医に
「下北沢さんは、作家になりたいとか、なろうとか、思ったことはないんですか。診察してても自分のことや抽象概念の表出がうまいし、本も読んでるようなので」
と言ってもらって、
「ああ、そんな時期もあったな。でもそんなこと、思ってもいいのかなって蓋してきたな。もう大人だし、だからこそ、思っても、いいかな」
とぼんやり、でもとっても強く思った。

それからもハラスメント男に捕らわれたり東尋坊に行ったり、バイトを始めても続かなかったり電車にも乗れなかったり、色々あった。

noteを真面目に始めたのは退院から1年以上経ったあとだったし、ただ文章が書ければそれでいいやと、また足踏みしていた。

でもその後もCBTしたり入院してた病棟にたまに顔出したり、働いてみたり旅に出たりラジバンダリ、そういう日々の中で、あのとき主治医や周りの医療者がああやって生き方の提示をしてくれて、わたしを信じてくれて、生きてみなよって応援してくれたから、少しくらいは答えてみたいなと思った。

お世話になったから恩返しとかそういう考えは偽物みたいでキモいとか思っちゃうし生きることが絶対的に正しいわけでもないし死んでおけばよかったかなとかまだまだ思うけど、せっかくいろんな人がいろんな風にわたしに期待してくれてるんだから、もう少しわたしはわたしに付き合って生きてみてもいいのかもな、って。

今でも、夢を見ていいだとか目指していいだとか、そういうことをあんまり思えないのは変わらないし恥ずかしいって思っちゃうけど、どうせ普通のほかのことだって上手にできないし、試すくらいはする価値あるかもとか、匿名でなら言ってみてもいいかなとか、そういう風に思うようになった。
お友達もこの歳からまた大学に入って医者になるとか言ってるし、自分も他人も自分を見捨ててくれないなら、ね、なんて。

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