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自分について語ること、のむずかしさについて。

緊張感のない日曜日、最高。

今日は学校も休みだし、次男のサッカーは練習だけだし、カーテンが陽をとおして明るくなるまでふとんの中にいられた。
しあわせのハードルは、低ければ低いほどいい。

適当にホットケーキ焼いたら焦げちゃって、こげをはがして食べたら、そこにメープルシロップがよく染み込んで美味しくて皆に好評。

少しずつ余ったコーヒーを合わせてドリップして、冷蔵庫の中で賞味期限過ぎてた豆乳の小さいパックをあけて入れたら、美味しかった。

洗濯物を干しながら、兄弟の音読やらリコーダーやらを聴く。
シーツもはがして洗濯する。

  
 noteをひらいて読む。
いろんな思考に触れて、刺激を受ける。
私もがんばろう、と思う。


数日前からストップしていた『スプートニクの恋人』の続きを読む。

本当に、この小説は比喩だらけで、でもなんだろう、突飛なのにわざとらしくなくてユーモアと真実味があって、これはやはり村上氏ならでは、と味わって読む感じ。


今日読んでいたところに、主人公が自分について語るところがあって、それを繰り返し読んでしまいました。

「自分とはなにか?」という命題につきものの古典的なパラドックスに足をとられてしまうわけだ。つまり純粋な情報量から言えば、ぼく以上にぼくについての多くを語ることのできる人間は、この世界のどこにもいない。しかしぼくが自分自身について語るとき、そこで語られるぼくは必然的に、語り手としてのぼくによってーーその価値観や、感度の尺度や、観察者としての能力や、様々な現実的利害によってーー取捨選択され、規定され、切り取られていることになる。とすれば、そこに語られている「ぼく」の姿にどれほどの客観的真実があるのだろう?

『スプートニクの恋人』

このあとにも、それについての説明が続くのだけど、とても興味深く読みました。

というのも、少なからず、私も日頃感じているから。

たとえばこのnoteで、私はこんな人間だ、という内容を書いたとする。(書かないとしても自分の中だけでそう感じたとする。)
それはどこまでが主観的だったり、選択したものであったりして、どこからが客観的もしくは相対的にそのような性質をもっていると言えることなのか…。

多くの人と比べて、というのはもちろん基準としてあるのだけど、その見えている他人だって本当のところはわからないし、こちらの思い込みでしかないのかもしれないし、となると、客観的ってなに…?


自分で自分を分類するなよ。

そんな言葉に行き当たり、これは、と思ったら、SEKAI NO OWARIの『 Habit』の歌詞でした。

初めは子どもたちが真似するダンスが面白かったんですけど、この歌詞、痛いところ突いてきますよね。
挑発口調で、でも大事なことを考えさせよう、伝えようとしてる。

私がいつも自分に対して思うのは、特にこれ。

不可能の証明の完成なんじゃない?

『Habit』

例えば、◯◯が苦手です、とか、◯◯さんとは違うから、と自分で言ってしまうとき。
こうやって"不可能の証明"、つまり言い訳をしてしてるだけじゃん、と自分に対して思う。

そういう厳しさはもちつつ、でも、無理せず自分を甘やかしつつ、とバランスはとりながらやっていこう、とは思っているのだけど。



あれ。
今日は穏やかな日曜日。
なんとなく一日のことをゆるく書こう、と思ってたのに、また思ってもみなかったことに思考がとんで、ずいぶん長くなってしまいました…。

読んでいただいて、ありがとうございました。




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