主体性と発達障害

『発達障害が増えたのは「知名度が上がったから」だけではない…心理学者がたどり着いた"社会のある変化"』
より


なぜ発達障害に悩む人が増えているのか。京都大学の河合俊雄教授は「多くは『主体』が弱いという特徴がある。主体が求められる時代になったことで、発達障害や発達障害的な特徴に悩む人が増えたのではないか」という――。

発達障害といってもいろいろですが、その多くは『主体』が弱いという特徴を持っています。発達障害や発達障害的な特徴に悩む人が増えてきたのは、時代が変化したからではないでしょうか。終身雇用が当たり前で外から決められた『枠』がしっかりあった時代は、主体性が欠けていても問題にはなりませんでした。コミュニティもしっかり存在して、その中での役割が与えられていたからです。

誰と結婚して、どの仕事をするかが、コミュニティの中で必然的に決まっていた。そうなると、主体性なんてなくても困らないわけです。しかし、現代は自然発生的なコミュニティが減って、自分で判断する場面が多くなりました。個人の自由度が増してきた現代だからこそ、主体性の問題があぶり出されていると考えています


「発達障害といってもいろいろですが、その多くは『主体』が弱いという特徴を持っています」
これは知りませんでした。 私にはこの視点が無かったので新鮮でした。
そして、これを読むとエニアグラム・タイプ6社会である日本は、元々主体性の弱い性格の社会なので(タイプ6は依存的と言われています)、今まではそれをコミュニティという枠を作ることで解決していたのだな、という感想を持ったのでした。
そして「現代は自然発生的なコミュニティが減って、自分で判断する場面が多くなり」「個人の自由度が増して」それで結果として「主体性の問題があぶり出されている」わけです。

関連して最近こういう話を読みました。

デザイン系の派遣社員をしている女性が綴る話です。
文章力があって読ませるかたです(文章力が、うらやましい)。

内容は、
デザインの仕事を後任に一カ月で引継ぎする必要があって教えていたのだけど、コンピューターの操作もよく分かっていない。教えても点で覚えるから、応用がきかない。
前職では業務上の立て替えが嵩み、クレジットカードのブラックリストになったそうで、「訴えたら勝てるんじゃないですか」と尋ねると、小さな声で「訴えるとか思い付かなかったです……」と答える。
仕事中の雑談で、しきりに「家で一人なのが寂しい」と話すのが気がかり。
それで雑談の中でサウナの話になり、オススメのサウナ施設を尋ねてきたので、答えたのだが、特に本気で行こうとしている様子が無い。

この時私は気が付いた。
後任は、あらゆることへの興味が薄いのだ。
興味を持つには持つが、とにかくそれが薄い。
これは私の予測の範囲を出ないが、仕事に対しても興味が薄いので自ら積極的に覚えていくことが無いから覚えが悪いし、他人に対しても興味が薄いので親しい人が周りにいないのではないだろうか。

ここまで書いていて私に対して「持てる者が持たざる者を見下している」という印象を与えてしまったかもしれない。
が、そうではなく、私は運良く配偶者と結婚して貰えただけで、一歩間違えたら後任の人とそう変わらぬ人生を送っていたかもしれないくらい共通点が多いのだ。

ここでは興味関心の意味で、「濃い/薄い」を使っていますが、
これは「主体性」にも置き換えられそうで、また「生きる力」にも置き換えられそうな話です。

それで、私自身もこういう面はあるし、「難しい話だなあ」と思います。

「主体性」の無い人、「薄い」人が生き辛い世の中になっているのかも知れません。

話をエニアグラムのタイプ6に戻せば、
タイプ6は決断や判断が苦手な面もあります。また依存体質です。
それは主体性の無い性格と言い換えることもできるものです。
依存が過ぎれば主体的にはならない分、興味関心が「薄い」状態にもなりやすいです。
国民性として、そういった方向に行くことに歯止めが利きにくいということです。


話を始めの『発達障害が増えたのは「知名度が上がったから」だけではない…(略)』に戻して引用を続けます。

発達障害は、脳機能の発達に関係する障害だとされている。その症状は多様で、自閉症スペクトラム障害(自閉症やアスペルガー症候群など)、注意欠陥・多動性障害(ADHD)、学習障害などが該当する。

私はこれらと主体性の無さが結びつかないのですが、冒頭でも紹介した通り、
「発達障害といってもいろいろですが、その多くは『主体』が弱いという特徴を持っています」
とのことです。

発達障害では無いそうですが、HSP(繊細さん)を思い出したりもしました。
一時期HSPの話をnoteで頻繁に見かけて読んでいたときに、
「この人、タイプ6っぽいなあ」と思いながら読んでいた人がいました。
私の初期のHSPの印象は、『芸術家』『夢想家』のタイプ4でした。ですが、実際に自身をHSPと言う人の話を読んでいると、その中に『忠実な人』『疑念者』『慎重な人』という言われるタイプ6を感じる人がいました。
それでHSPには2種類ありそうだと思って、それを文章にも書いたこともあります。

※ 『タイプ4型HSP、タイプ6型HSP


引用を続けます。

人間は自由の刑に処せられていると述べたのは20世紀の哲学者サルトルだが、自由はある種の人々にとって大きな重荷なのである。

依存体質のタイプ6にとっては、「自由の刑」になるでしょう。

「自由はある種の人々にとって大きな重荷なのである」
これはタイプ6の国民性である日本人に当てはまりそうです。
エニアグラムのタイプ6は、『忠実な人』とも呼ばれています。依存先が欲しい性格です。

つい最近も、

日本人の幸福って、苦労しながら自分主体の人生を生きることではなくて、難しいことを考える必要はなく衣食住には困らず適度に休みもあって、さらに身近に自分より恵まれている人がいないこと。

という話を取り上げました。

もうすぐ選挙ですが、選挙においても主体性と責任が求められます。

ただし、通常のタイプ6は、リソ&ハドソンによれば以下のような態度を取るそうです。

何かうまくいかなければ、それについて声高に不満を述べるが、そのまずい決定についてはどんな責任も避ける。

こういう時代の中で、「主体性の問題があぶり出されている」状況のようです。

横道にそれたことを書かせてもらえれば、
発達障害とかHSPという分類分けもタイプ6的に思っています。
タイプ6は、安心・安全・安定が大切で未知や混沌を嫌います。
それで、自分の状態に(他者の状態にも)名前を付けて、未知を既知にして安心したいのだと見ています。
これは、エニアグラムやらMBTIやらで自分を語るのも、所属を明確にして安心したいのだと見ています。
だから不安がつのる時代になるほど、性格分類や占いの類が流行るのだと見ています(ちなみに私もそういう面はあります)。


もう一度、話を戻して進めます(これで引用は最後です)。

(「現代は自然発生的なコミュニティが減って、自分で判断する場面が多くなりました」の続き)

自然発生的なコミュニティとは、ご近所さんの輪のようなゆるいつながりのことだ。家族や仕事仲間のような緊密で必然的な関係とは対照的なものである。人はつながりがないと生きていくことはできない。ゆるいつながりが消滅すれば、必然的なつながりにしがみつくしかない。そうなると、必然的なつながりはさらに緊密さを増していく。この現象を河合氏は、「カルト化」と表現した。

「現代は、家族がカルト化しています。昔なら、おかしな家族がいたら近所の人が『あの家はどうなってるの? 』と首を突っ込んでいましたし、子どもも近所の祖父母の家に遊びに行ったりなど、逃げ場がありました。ですが、カルト化した家族には逃げ場がない。歪みはどんどん濃縮されていきます」

一方で、インターネットの発展により、つながろうと思えばいつでもどこへでもつながる手段が生まれた。無数の選択肢と、カルト化したコミュニティ。その両極端のつながりに挟まれた現代では、より強固な主体性が必要になってしまったのだ。

たとえその人が「薄い」人であっても主体性の無い人であっても、ゆるいつながりのある環境であれば、それが目立つことなく生きれたのかも知れないという感想を持ちました。
ネットだと、先ほどのデザインの派遣のかたの「薄い」人の話のように手を差し伸べられても、メッセージを読まないとか、それを自分から簡単に切断できちゃうんですよね。

とは言っても、「必然的なつながりはさらに緊密さを増していく」状態です。
そうなると、職場・学校や家族というものが「カルト化」する事態だってありえるわけです。

そういえば、福岡県では、ママ友に支配されて5歳児が餓死という事件もありました。

「無数の選択肢と、カルト化したコミュニティ。その両極端のつながりに挟まれた現代では、より強固な主体性が必要になってしまった」

「現代は自然発生的なコミュニティが減って、自分で判断する場面が多くなり(略)個人の自由度が増してきた現代だからこそ、主体性の問題があぶり出されている」

一方で、日本人の幸福としては、
「苦労しながら自分主体の人生を生きることではなくて、難しいことを考える必要はなく…」
で、そうなると、主体性を求めている今の時代に、それに適応できない人が理由を求めて、発達障害という言葉にたどり着くわけです。

そういうわけで、
主体性の弱い人が、生き辛い理由として得た言葉が発達障害なので、
「発達障害といってもいろいろですが、その多くは『主体』が弱いという特徴を持っています」
となるのでしょう。

コミュニティの変化を扱ったものでは、
筑波大学教授 土井 隆義(どい・たかよし)氏
の話を思い出しもしました。

昨今の日本では人間関係の流動性が高まっており

主体性の話ではありませんが、コミュニティの変化とそれに対応しようとする若者の話がされています。


今日の若者たちは、かつてのように社会組織によって強制された鬱陶しい人間関係から解放されることを願うのではなく、その拘束力が緩んで流動性が増したがゆえに不安定化した人間関係へ安全に包摂されることを願っている。

かつて人間関係が不自由だった時代の若者たちは、強制された関係に縛られない「一匹狼」に人間的な魅力を感じて憧れたものだった。

しかし、今日の若者たちは、一人でいる人間を「ぼっち」と呼んで蔑みの対象とするようになっている。一人でいることは関係からの解放ではなく、むしろ疎外を意味するからである。

逆にいえば、人間関係に恵まれているという事実こそが、人間的魅力を示す重要な指標となっている。

かつてと比較すれば、現在の日本は確かに一人でも生活しやすい社会になった。しかし、そうやって人間関係の自由度が高い社会になったからこそ、つねに誰かとつながっていなければ逆に安心できなくなっている。

それを欠いた人間は、価値のない人物と周囲から見られはしないかと他者の視線に怯え、また自身でも価値のない人間ではないかと不安に慄くようになっている。その意味で、じつは今日は、一人で生きていくことがかつて以上に困難な時代なのである。

こういう見解もあって、
いつのまにか社会の枠組みが変わってきている中で、
安心・安全・安定を求める日本人は、
皆、自分の幸福を得るために苦労しているようです。

そのような中で、
「強固な主体性が必要」って言われてもねえ。
そうは言っても日本社会は、安心・安全・安定のために失点を許さない減点社会だから、
その結果として「とにかく周りの空気を読む」ことを同時に求められているという矛盾があってですねえ。

日本人自身も、「苦労しながら自分主体の人生を生きることではなくて、難しいことを考える必要はなく…」な傾向があって、若者であっても無難な人間関係へ安全に包摂されることを願っていて・・。
そのような中でも「強固な主体性が必要」って言われてもねえ。

現実としては、主体性無き人が生き辛い社会になってきているようではあります。

あなたは主体性がありますか? 濃いですか? 何らかの当事者でいますか?

濃ゆくなければ生きていけない。優しくなれば生きる資格がない。
なんて
フィリップ・マーロウな良いこと言った風で、この話を終わらせてみたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?