主体性と発達障害
『発達障害が増えたのは「知名度が上がったから」だけではない…心理学者がたどり着いた"社会のある変化"』
より
「発達障害といってもいろいろですが、その多くは『主体』が弱いという特徴を持っています」
これは知りませんでした。 私にはこの視点が無かったので新鮮でした。
そして、これを読むとエニアグラム・タイプ6社会である日本は、元々主体性の弱い性格の社会なので(タイプ6は依存的と言われています)、今まではそれをコミュニティという枠を作ることで解決していたのだな、という感想を持ったのでした。
そして「現代は自然発生的なコミュニティが減って、自分で判断する場面が多くなり」「個人の自由度が増して」それで結果として「主体性の問題があぶり出されている」わけです。
関連して最近こういう話を読みました。
デザイン系の派遣社員をしている女性が綴る話です。
文章力があって読ませるかたです(文章力が、うらやましい)。
内容は、
デザインの仕事を後任に一カ月で引継ぎする必要があって教えていたのだけど、コンピューターの操作もよく分かっていない。教えても点で覚えるから、応用がきかない。
前職では業務上の立て替えが嵩み、クレジットカードのブラックリストになったそうで、「訴えたら勝てるんじゃないですか」と尋ねると、小さな声で「訴えるとか思い付かなかったです……」と答える。
仕事中の雑談で、しきりに「家で一人なのが寂しい」と話すのが気がかり。
それで雑談の中でサウナの話になり、オススメのサウナ施設を尋ねてきたので、答えたのだが、特に本気で行こうとしている様子が無い。
ここでは興味関心の意味で、「濃い/薄い」を使っていますが、
これは「主体性」にも置き換えられそうで、また「生きる力」にも置き換えられそうな話です。
それで、私自身もこういう面はあるし、「難しい話だなあ」と思います。
「主体性」の無い人、「薄い」人が生き辛い世の中になっているのかも知れません。
話をエニアグラムのタイプ6に戻せば、
タイプ6は決断や判断が苦手な面もあります。また依存体質です。
それは主体性の無い性格と言い換えることもできるものです。
依存が過ぎれば主体的にはならない分、興味関心が「薄い」状態にもなりやすいです。
国民性として、そういった方向に行くことに歯止めが利きにくいということです。
話を始めの『発達障害が増えたのは「知名度が上がったから」だけではない…(略)』に戻して引用を続けます。
私はこれらと主体性の無さが結びつかないのですが、冒頭でも紹介した通り、
「発達障害といってもいろいろですが、その多くは『主体』が弱いという特徴を持っています」
とのことです。
発達障害では無いそうですが、HSP(繊細さん)を思い出したりもしました。
一時期HSPの話をnoteで頻繁に見かけて読んでいたときに、
「この人、タイプ6っぽいなあ」と思いながら読んでいた人がいました。
私の初期のHSPの印象は、『芸術家』『夢想家』のタイプ4でした。ですが、実際に自身をHSPと言う人の話を読んでいると、その中に『忠実な人』『疑念者』『慎重な人』という言われるタイプ6を感じる人がいました。
それでHSPには2種類ありそうだと思って、それを文章にも書いたこともあります。
引用を続けます。
依存体質のタイプ6にとっては、「自由の刑」になるでしょう。
「自由はある種の人々にとって大きな重荷なのである」
これはタイプ6の国民性である日本人に当てはまりそうです。
エニアグラムのタイプ6は、『忠実な人』とも呼ばれています。依存先が欲しい性格です。
つい最近も、
という話を取り上げました。
もうすぐ選挙ですが、選挙においても主体性と責任が求められます。
ただし、通常のタイプ6は、リソ&ハドソンによれば以下のような態度を取るそうです。
こういう時代の中で、「主体性の問題があぶり出されている」状況のようです。
横道にそれたことを書かせてもらえれば、
発達障害とかHSPという分類分けもタイプ6的に思っています。
タイプ6は、安心・安全・安定が大切で未知や混沌を嫌います。
それで、自分の状態に(他者の状態にも)名前を付けて、未知を既知にして安心したいのだと見ています。
これは、エニアグラムやらMBTIやらで自分を語るのも、所属を明確にして安心したいのだと見ています。
だから不安がつのる時代になるほど、性格分類や占いの類が流行るのだと見ています(ちなみに私もそういう面はあります)。
もう一度、話を戻して進めます(これで引用は最後です)。
たとえその人が「薄い」人であっても主体性の無い人であっても、ゆるいつながりのある環境であれば、それが目立つことなく生きれたのかも知れないという感想を持ちました。
ネットだと、先ほどのデザインの派遣のかたの「薄い」人の話のように手を差し伸べられても、メッセージを読まないとか、それを自分から簡単に切断できちゃうんですよね。
とは言っても、「必然的なつながりはさらに緊密さを増していく」状態です。
そうなると、職場・学校や家族というものが「カルト化」する事態だってありえるわけです。
そういえば、福岡県では、ママ友に支配されて5歳児が餓死という事件もありました。
「無数の選択肢と、カルト化したコミュニティ。その両極端のつながりに挟まれた現代では、より強固な主体性が必要になってしまった」
「現代は自然発生的なコミュニティが減って、自分で判断する場面が多くなり(略)個人の自由度が増してきた現代だからこそ、主体性の問題があぶり出されている」
一方で、日本人の幸福としては、
「苦労しながら自分主体の人生を生きることではなくて、難しいことを考える必要はなく…」
で、そうなると、主体性を求めている今の時代に、それに適応できない人が理由を求めて、発達障害という言葉にたどり着くわけです。
そういうわけで、
主体性の弱い人が、生き辛い理由として得た言葉が発達障害なので、
「発達障害といってもいろいろですが、その多くは『主体』が弱いという特徴を持っています」
となるのでしょう。
コミュニティの変化を扱ったものでは、
筑波大学教授 土井 隆義(どい・たかよし)氏
の話を思い出しもしました。
主体性の話ではありませんが、コミュニティの変化とそれに対応しようとする若者の話がされています。
こういう見解もあって、
いつのまにか社会の枠組みが変わってきている中で、
安心・安全・安定を求める日本人は、
皆、自分の幸福を得るために苦労しているようです。
そのような中で、
「強固な主体性が必要」って言われてもねえ。
そうは言っても日本社会は、安心・安全・安定のために失点を許さない減点社会だから、
その結果として「とにかく周りの空気を読む」ことを同時に求められているという矛盾があってですねえ。
日本人自身も、「苦労しながら自分主体の人生を生きることではなくて、難しいことを考える必要はなく…」な傾向があって、若者であっても無難な人間関係へ安全に包摂されることを願っていて・・。
そのような中でも「強固な主体性が必要」って言われてもねえ。
現実としては、主体性無き人が生き辛い社会になってきているようではあります。
あなたは主体性がありますか? 濃いですか? 何らかの当事者でいますか?
濃ゆくなければ生きていけない。優しくなれば生きる資格がない。
なんて
フィリップ・マーロウな良いこと言った風で、この話を終わらせてみたいと思います。
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