見出し画像

トランス性惣の議論に潜む、妄想自体禁性の罠

 まずは、人間の心の、或る仕組について話しておくがよいかもしれない。人間は思考するときに幅広く演劇を見るものであるが、その中での役としての第三者なる者は、倫理観を遵守せねばならない、当然に、と大衆は思っているわけだ。これは法律にもそのまま背立たれている。

次に人間の心理のことを柔母の中、つまりは真実が許された中で話しておけば、またその劇役として、悲劇のヒーロー(?)/ヒロイン当事者こそが、そうやった大衆倫理を語ることは、また大衆には協定を成して拒否られ、抵抗され、禁ずられる。無論その、反抗的思考こそは恐らく大衆倫理の中でも悪のことであるから、これは倫理的主張が同じくそれを含むと言う処ではない。


 この世に不条理はあるが、そういった『地獄』の言葉共有はするものの、『天国はどこだ』とまではみなで言ってみるものの、『この元:天国は、今はすっかり、見ろ、地獄に成り果ててしまいた……  戻さなきゃ?』とまで言ってくれるメシヤンは居ない。それが大衆内部の、少なくとも現代的現状だ。

 こちらはかなしくも現代に限らないだろうが、先出した人間学的(社会学的)真理(こちらだと懐かしい永井ツエィトテイストの脈発な者であるが。)というべきか、人のことありとシンプルに切るべきか、ようはどの世の大衆も伝統から継き承いできた、自発的な二重拘束の本性を有しているというのは、何とも真実なのである。それは、全人に虐めの本性があるといふやうなものさ、だ。此方のエヴィデンスはプラグマティズムに各自散見してくれたらとして、本呈に移ってゆく。

別にトランスエイヂも何もかも、それの第一次的純粋を否定することは、人間の8割を締める内心の妄想全てに嫌気が刺すことと言うことは同じであることを、認知させることが目的。内心に踏み込んでいることに気づくかどうか。目的としては、ただ、危険工場の否定一本である。そして問題は、その危険因子自体は、皆のもつ「妄想」そのものなのであるということだ。

今版したのは今論枢重-大(敢えてして振り分けられた所には主意が在るが。)の要約となる。


 勿、論順を追って解述してゆくと、トランスジェンダーといふ思想が多く今之此世には参観されて、それを派中に多様の似たトランセナが拡散されておる状況は、周知の事実とある。その内の一つ、トランスエイヂについて端的に(こふゆう端的はどうだろうか。端的とは、一般には簡単に一語でそのモノの性質を言ってみるその尺度が表はされているも、その由源の意泉の洋図としては、ものを一つのオシロスコープとして診ると、そのものの端が二つ、両目を攻明につかって視界に映るが、右端Uetunを終わりの諸とすれば、左が始まりのそれであって、右の然行の極度の時点にて言える結言Katsuguneといふものが、漏れなくMezudaに埋まった感じである。又因みに、如何なる言語も想遠すれば、その基源は感想語刷力であったろふ。)解剖すれば、とゆこうとしたが、やっぱりトランスヂャミカシー(ヂャンダヂェミタァ)で考へよう、そちらをそうすれば、それは内心として外概と違うことのある特質であり、歳も性も、その別種-別類はその特の具体実名に厳正に区分けられるのみであるとの諸である。Trance Pilot が通り過ぎて、するとそれは、つまりは世間的にはピィラォットでないが、〈私〉てきにはパイロットである、とのよふなもの。ほっ、ほほ。

 またその特質からだろうか、早速トランス概念は虐めの歴史をその継児の背面に置かれた。第三者は倫理に適合せねばならぬが、ある意味で、被害側的当事者はよりその適合を世憶にせまられるのである。それは、その加二且性也矢。、被害者はその属性から愛庇護をその以上無傷に頂くことができるのだから、それ以上は謹んで、被害の実情報告としてだって、本音を振り撒き、より確定したかに思える愛を、私も被害者には人間として生きてる限り当然枝替ったことがあるから分かる、それはとても醜くて、尻込みせねばならないことだから、貪欲に望攫もとめるのはやめなさい、と世にされているとのことなのである。「運致Anphiの仕組みを知れ」、とかのものである。貴様には運命が定まっているのだから、それに廃立、背律すな、というのである。また人間であるから、我々と同じ、 、 、 、 、、その運命を、との説調は最期までもたないどころか、はじめの方から千鳥足になっていてよれる、縒れる。そういったeggerな神も盲信する信教者ほど、実際には神愛に疎い人生とは、興味深い項果コとだが。

 だが、それはとどのつまり、批判者の当(だとして)批判材料は、当批判者自体の内心の焦りから、口から吐いた膿を例へばじぶんのモノと信じ込みたくはない故に、偶然美味しく当たった他者へその責像をぶつけたといふだけである。トランスジェンダラッス、イエヂェイー・ディポレントも供で、自分の内心の世普とのズレを感じることは、誰もにとってストレスなのでまずある。

ストレシーなディファレントを自分ノモノとして背負ひたくないとするのも本性捩りである。トランシー(暗澹必然的)な人間ほど、他者への開けに独特な趣味をもつのも、また。となるとであるから、第一次的なLives These となるソレらの個苦は、隠したい故に純粋、自分のもつとも近しい物理的な相手そのものである。それを切るとは何事か。それは他者として切られて欲しくもないけど、火が見えるとき水が欲しいのである。

 Jhowon Periorder縄文・ジェ・ンラシー のやふに、火を初掛まずてに巻き込むばはいはどなるだろう。トランスジェンダーに敵が居ないなら本根に業者がはしつて来てもよひだれうが、いるから、話すわけで、もう一方の、火も無い時代Starte のトランス惺批判(トランス概訪以前の世はすでに構築されている設で。)とくれば、それとは哲学に枠彩られた(世・、には〔これは、チャールズジケンダ技法。〕)新論理学的視点の座から蒸された濁眼で、他者の科学的事実の批判が非科学的に光る所へ、興味もないではなく徹底的に叩き倒異のめしにきたところだろふ、実科学主体(そうあれる程に立派の諸をここでは差したいのではる。)の。こちら様は、Two - gumchar の科歴に辟易するTranser 、たちに辟易する学者てきな人間たちによる、自覚的な科学改革の否定である。明治時代くらいは、頭の中にある故に科学=真理的証明が難しく、語らいもづらく、何より認識論的(すべてが〈私〉である故に、〈あなた〉も〈私〉と同意になってしまうパラドックスのやうなもの。)阻害壁が狭み立つ、しかしその理を自己の信用する限り、自己も含めた全ての、実他者たちも含めた存在の全ては、その心味として、これ、マターインナウタイム(の感情と講条)、に対した疑いを語ったときに、まず罪行れる嘘である、というのも真理でならなければならない世界観であるのに対し、猿も横に去らずと、これまた実は全く「両者にとり」同じ世界観であるのだが、表面的には、ヨソの内心に敢えて闘いを挑む(まだ、奥が不明である実の下段に、直前の確固熟した誤憎が揺振るから。)必要、というのが追新過無にあった。


 まだ前者はヨソの精神に平和的だが、後者はヨソの内精という範囲Talitoriayに様通り不寛容である。此方なら衛生的な現実の意識もより深く強ひものであると計る。「分かるが今は仲間よ、闘わないでおこう。およ、この安寧を破るとならば、わらわもきさまもたちまち【敵】とならう」説派が論理柱芯的な「批判的立場」であることは明らかだが、既覚遵守性の論徒どもなら、それに加わる見せに加わらないこころを賢きにもちては、その一丸属の二側方の理争四駆の動力源を担う存在となつている。


 さて、ところで、読者のためにも?。、そろそろトランスェフー側にも反論を立旗させてほこふか。いずれも、いずれも、如何に許せなかろうが、私こそゆるせないのだ、と。真理をもつものは真理をもたぬ者を許さぬ、そしてそれを徹底してこそ善に成れるとは思わざるを得ない、現にそうだからだ。反対に、真理をもたぬものは、とは続けられない、非対称的なことではあるが、真理をもたぬ〈私〉は存在論的に存在できない故にある。それはどふゆふことかとひへば、全くにプラグマティズミンな手法により解き編まれるわけではるが、真理の存在こそが、そのまま行為の意思となっているからであるが、これではあまり、 、 、満足されないであろふから、行為が全原初的哲学=思考を含む、といふてもおそらく同じであろふから、真理をもたない〈私〉というのも一つの真理たるといふしかないやうであった。つまり、皆が真理をもち、皆は怒らざるを得ない人間の運命を辿ると、哲理の言ふのよ(だから、一頁もまだ捲ったことは無いが、中島義道氏の視点としての、怒りの勧めといふ思想は、それが既過の気付かし意でない限り、なんとも根本=始歩的に間違っていそうなものだ、とまあ腐ってみる)。

 トランスィーサゥのつけまつ毛は、しかし前々から全く分かりきっていたことではなかったか。たとひば男に転じたいが女性性から出発する(故にこのcase is, 女性性がその人の本性。※あくまで緩い及んでも四以下の、性二元論的視点からの基組論でへあるが。※〆)点からしても、男性が根は原優=女性性に豊富だったために帰結することにした由結にしても、トランスは原草なる母のありと、いかづちなる晃爺のThe Vanishing を啓示する他無いのではる。


 いまのはバレないことへ巧妙な余談であったが、つまりは君の読書今時間はたっぷりあることを祈り座間就いて(わたしは小学2年生などでモンハンをはじめたときから、モンスターに跳ね退けられて、たとえばディアブロスや超大型級やイヴゥルヲーの顎アッパーに、髙弧を移強せられるのが自動感覚的に好きで、モンハンにつひては大量に哲学の發されるもその一質として、そしてこれは私に限らぬが厨二病的=神母原恵光=宗教愉的に、そんな燦情のjiefで、児青時代をよく布団の上でそれを真似しながら育った面点もある。何が言いたいか、私は天始のエスっ氣徹の負い小熊貓であるが、その餅性モチサガの極=笨逆択楫的に、サらにその幼霊か種霊不変的に、そういうとこに通じひた、差挿座ひざまづきの快楽も嘘なく知って、浴すときゃ欲すのである……又々脱腺をちょいとなってね。)。(目かよ!いや、メタモンっていったんじゃないよ?…オビオビオビオビ…… …………  )つづくとすらば、  さぁて、その主輪不倫を起すのは、並大抵のモノでは行きますまい。

トランス〇〇な象