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俺にとって、(全周囲)マスク(期の到来)とは何だったのか

 この書に筆を取ることにしたキッカケはおぼろげで、もう忘れてしまったが、そう言うように私にとって、マスクのとある悪影響に気付くような感覚を得たのは、もう3年前ほど、2020年のいつかの、そのキッカケを取ったように、また風呂でのことで、そんな思いきであったと回願する。
 それまで、つまり身の周囲の人間たちが一せいに常にマスクを口にかばう姿が習慣に定着するまで、その期が来るまで、わたしにとってマスクとは、呼吸を荒れさせ、歌を気持ち悪くさせる、しかしそれをまとえば病院での希得感が与えられてまるで全身が包囲され、それはそのときは気持ちいいような、そんな悪性と良性を同時に兼ね保えたモノ (thing) であった。つまり、この書で語られるような、私が3年前くらいから、日常でそれを起こすような出来事に出わしたら嫌に感じ持つような、マスクのもつ悪点には、子頃の私は気付いていなかったのだろうと、今の私には思える。それもその筈、なぜならこの悪点は、決して、この時代を覆噛がっぽる大きの波に運ばれてきたと共に、その波の内部からはみ出さないものであるからである。その波の質とは、大げさに言えば「時代化」、小なみ小さげに言えば「感時停滞」の、自他のマスクの着脱に関して人の受ける感情印象のことである。
 いきなり本題に入ってしまえば、マスクは、視慮深い私にとって重大な欠陥を及ぼす。持たすのだ。それは、コミュニケーションの欠陥である。コミュニケーションにおける、コミュニケーションに関する、コミュニケーションのための、またコミュニケーションの武器的引取運材の、欠陥。つまり、全人類にとってのそれである。マスクは表情を隠し、表情でコミュニケーションする、コミュニケーション力の非常に高い水準の上物枠に立つ人間共を、その武器としての表情使いを、その地位らしめる能力を、各々の自覚的に明らかに破壊し、損なわせる。無論、表情を巧みに使ってコミュニケーションをすることに慣れきってきた人間は、このマスクの荒波によって、それに家族や友人, または仕事メイトとともに飲み込まれてすぐには、この「悪点」たる「見えざる感じ触る壁の高立ち」に気付かないのだが、後あと実際にコミュニケーションを取るに当たって、円滑なコミュニケーションの基礎を築く、いつもの自分の「技」なるものが使えないことに、そこでようやく気付くわけである。だから私も、ある日、そのある日なのか、「2020年」のあくる日に、ふとか、気付いたわけである。具体的な説明など既にいらない人々の多くに話している気は無いから、どのように表情の技があるのか(どのようにそれがマスクによって無効化されてしまうのか、は語る必要がないだろう。)、ということをお教えしたい。
 人というのは、猿の笑い続きというのか、皆その猿から性格を継承している以上、人と会話する際に(もしくは、ペットと二匹きりで会話する際にでも)、一笑い取ってやろうと、おもしろおかしなジョークを言ってみたり、ちょっと意図的・演技的におおげさに笑ってみて、相手の貰い笑いを誘おうとしてみるものである。それは、幸福、ハッピーになることを目的としている人が、実は直本的に皆そうであって、しかし案外皆が今のその時期にそれに気付いている分けでもなく、故にそういった一単の、その一つの本質理解をして居ない人々というのは、自分の笑いの剣で見た豪士の業を高めている、又は我輩我士はそんなレベルではなく、自分の笑いの豪士としての周りの人間の評価を高めているのです、又はそんなレベルでもなく、出合う人全てを笑かすことを目的とした芸道人の極め今を進んでいるのです、といった、ようは様々の他の目的の持ち方をしている者も居るのである。そして、笑いを相手から吸収、もしくは自分から思い切り発散してやる、という衝動に見舞われた際に、人というのは自然に「自分の表情」を、そして「他人の表情」を、純粋に道具、または「武器」的に扱うステップを踏むことで、着実にこの任務(もしくは楽転)を遂行させてみせる、と考えるものなのだ。それは自然に、本能的に。そしてまたそれはなぜなら、まさに「笑い」というものが、「実」の音、というものを聴かない、そして「実の風景」、というものを見ない人の