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「熱量理論」の深みに浸いて.. . . . 

 
 
 熱量理論とは、私がエムエルンドの面に2,3年前以内の小昔には浮かばれすくすく育っている哲条束概念である。熱量というのは具体的なワードでありながら意味がいっこにギュッと凝縮されたような公用語でも無いし、科学方面と情力学方面に学問的立地しているぐらいだから、よって究極あやふやに捉えられている意味の意外な代表格でもある。エムエルンド秘滝の熱量理論を受入れれば、熱量という言葉の意味がスッキリとし、あなたの非肉の武器となる。だが、それは単なる言葉遊びではない。寧ろ、言葉遊び的本質をこれまでジャグリングするとこ表路するも多かった我の書物にして今書こんしょは、言語学的側面に一切属さないテーマがある(見ての通りと成ろう)。科学も情力学も孰れ還元も貢献もするのは「社会へ」であるが、今書では科学方面についても一切、そもそも筆が触れてかない。思えば、科学の専門家よりも、情力学ということ、社会処世術・社会観察解析学の専門家の方が爆倍に多い筈であって、となれば嫌いな姿勢に重なりはするが、この書もベストセラー待った無。
 
 熱量がある、そう言えば、どんなことを指そう(ここからは本格的に非・科学領域跨で)。あの人は植木に熱量がある。だからあの人は植木をよくしている事だ。……… これでもよいが、やはり「継続性」もこの説明煮込混調味料には欲しくなってやないか。あぁ、あのひとは植木をもう10年も続けている、これじゃあ熱量があるということだろう。        例えば、その井戸に代々ねころぶ金の枕を80年間見回り続けた人が居るとして、譬えその人が実は言葉面それが「金の枕を見ること自体が目的だったのではない(例えが欲しい?、金の枕が横の激深穴からいづるいずす蟻はん列にどのような影響を与え、かつ80年観測を続ければその影響についてのまあまあな理論がこしあがるやもしれん、と思って通いに勤しんでたとか)」と、してもである。【その人は金の枕を毎日並みに見に行くその明白な〈習慣〉において熱量をもっている】に決まっているだろうか。  。。……………これが全く、「必ず」そう言える\決まっているのである!と、ビックリポイントを付けたが「深み」はcome soon だ。さらっと言ってしまえば、我ヶ熱量理論における第一の原法則、 熱量とは謂わば即ち超感(長期体感)期継続をした現の残り健活の自分の行為な者、それに附くそれの本質としての性別の一つの言い(意霊の吐き示めす)方 のごと也。
 
 その人がたった昨日に「これから30年植木を趣味でして逝傾くよ」と言ったところで、その人がそれを遂行する「確証」は当今たこむに無い。現実生プラグマティズマとして、今の'50に、前先まえさきの'20からずっと続いているという確証じみたものがあってこそ、はじめて、その人のの言葉は確証がありじみれる。そんな同時に、その人には植木の趣味につき「熱量が有る」と言い得る訳である。
 
 例えば、自分が本当に何でもできるのだという自信に満ち溢れている者も少なくないし、そんな者は幼少のころから沢山の夢を必然的に待ち得る。夢でなければ現実的なプランだったりば、複多択の自分のサクセスフルな未来の恍幻だったりな。そんな者らはしかし、行動には限りがあって、全てしながらそういう点で欠落なく完璧にモチベの同型をkeepしつつ生きを進めくことはできなかろうが、ちとSf的になってみよう。仮にすべてができるほどに忙しくはない、外部からのなんら命令圧力もないとする。それでも、なのではないか。5分後に続けていることは確かに10分後も続けていられるかもしれないが、今日と明日では「時間」が絶対的に違う。その質がね。やっていることのカテゴリーは同じでも質的に全く同じことをすることは、環境の機微をSfの力という唯一可惧によって一切廃したとて、時間の絶対存在的な機微によって、つまり記憶の絶対的な堆積と差産によって、不可能なのであることは、ちと察せれば分からんわかるだろうよのお。そういう意味で、時間は我らに限られている。だからこそSfで今度は我らを不死身にする必要あれど、それは今はややこしくなるのでやめておく。
 
 また、現実的な話に戻ろうや。自分の沢山の夢は、何もSfでなく産まれてくる、そんな人も居る。夢というか、実際的な計画や、惚妄やら、ね。そしてそれは、あなたが10年、5年、20年、どれだけでもいいが、ある程度の長期、それもあなたの体感的長期でなくばならないだろうが、そんだけ経っても、「すべて」やれているだろうか?。私の話をしよう。私なら、サイエンティスト、パラグライダー、盆栽家、ゴルバット、何にだって、厨二病的なカッコ良さを感じることによって、それらになる夢のようなものを常に新しく出して見、また来た者去らせず定期的に頭内抽斗からだして眺める〔ちょっと、いやかなり独特なASD寄りのOCD的成分も。〕ような子供であった。少年丈食い、青年にドボチャンっしたって、私の続けてきたことはその大量のうちの至極少数に思われる。主にわたしなら三本の柱、芸人、音楽家、哲学者。それらは幼始Yoochiからありながら、今の世にもずっと同形的に在筒蹴る。サイエンティストはどうなったか?では、奔走白衣博士ドクターはどうなったか?ほんなら、パラグライダーはどうなったか?早々から気づいていた、それらが向ける魅力とそれへの俺の熱中に嘘はなかった。けれどもそれを熱量のあることと認めることは叶わない。それは、「続いていない」どころか、ほぼすべて真剣に取組まれ始めたことすらなかったり、真剣に取組んだけど思ってたんと違って、またはキツすぎて、また単なる意味で熱量がもてなく(なっ)て、などなど、様々な意味で、始めていなかったり挫折頓してそのままだったり、結局「〈今〉までもの継続」にまでは至っていない。あなたに何年も続ける趣味か何かといったことは一つ以上あるだろう、それがもし、かなり珍しいことだとは思うが「嫌々」でも何年も体感長い時期続いているのなら、あなたはそれに熱量、真なる興味をもっているのである。人は熱量をもたないことが続かない。そういう論理学と見ることもできる。社会は熱量のないことにも熱量をもとうという事をアドバイスしていく他ない(身のために)が、それができないことは、この熱量理論からこそ、売り出すが、そうさせられてあるのである。
 
 さて、私は最近、熱量理論についての新たな視点を不意に獲得した。それは追正ついせいとなれよう、熱量理論の「積極性」に私は知付ちづくこととなった。
 
 私からしてみれば「熱量理論」とは非常にシンプルな話であったことはブリ返っておきたい。確かにその事に熱量があることは自分に取り確かだ。だけんども、それを現に、実際にそうでなくて体感的にでも、長年、継続させてこなかったのだから、それに附くのはこの(私の、ではなくこの)慧眼を以って「「熱量」ではない」と来た。最近いつものごとくふわハー君(私のもう付き合い2年易々越えになる、体感6年くらい超えになる、真のフレンドの1人、独特に哲学対話ができるフレンドとしてある唯一種、芸術仲間。)と哲学会話をしていて、その途中、過程で、彼に俺の熱量理論をさりげなく引用されて嬉しかった。その名を出しては、まさに熱量もないのにどうちゃらこうちゃら…まぁいいや。ほんでじゃあ熱量とは、そう、長年、現にそうでなくとも体感随分と、随分随分と、自分と共に成長し、継続して生けられてきた趣味・才能・職人業などの、あるそれら雰についての特殊性を明らかにするための【命題】の名前一本となる。
 
 で、熱量理論の根拠についての思想が散浮飛遊していた。して、編み出されたが、あやとりは、「ひとりの人間にとっての期間の意味」に絡げた。熱量理論とは、そもそも、俺の性格的にも、「正直に」正直な真実をわりだそうとする機動から生れた一つだ。人々はあれこれと「これに熱量があるんだよ」、と言う。それだけでよかった、なのに、我々はなんと孤独の内にも、「これに熱量がある」と強覚(私の個人的には強迫性的に。)して、アイデンティティを確認してきたのではないか!何が有る?その量の他群抜惺、その質のリング ビーンズ状性っ認め得る生き甲斐っっその充足感は兵器ともなれてっっっ   んでだが、それらは真に熱量だろうか?疑いはいつも、そのまま現れない。必ずその親種づぬもとは、より否定されがちな、疑念ではなくて「否念」となる。真の熱量とは、私の人生に密着し、私の一回生の生きる意味、それそのものであらなければならない、そうさ、そうであったら確実に「正直」にそれを熱量と呼び得る!口ではあれに興味あるあれに熱量ある……言いがち。言わせる圧力さえいくらでも思いつく。だが、「正直な所」、熱量は「生き方の真実」そこにこそある。日々真にやり、当たり前に好み、長年、いや生きている中ずっとでも、継続する。それを熱量と言わずして何になる。
 
 そして熱量突く出来事は、現実に「ながい時間」に附くのだ。それは、プラグマティックで、あまりにもありありと実際的な、「人間の、」いや我ら(ヒトでなくともいし。)の真実ではなかろうか。熱量理論、体感的に長い期間継続させている趣味このみの事柄、そうやって選別すれば「真に熱量あること」は実際沢山あるように見えなくとも、選ばれしそれらの内容は、潤沢に山積みの歴史を有する筈だ。そしてその歴史しか、我らの記憶でなくないか?以外、なれなくは、ないか?
 
 人間の営みがいかに謎々しくとも、そこには熱量がある。なぜなら、人間とは時間を生きる生き物だからである。たとえば30、そして「ディケイド10年間」という期間は、ただの時点線ではない。熱量そのもの、人間そのもの、愛そのもの、言葉の火種そのもの、わたしたちでさえものそのもの、生き方と力の根源、滝の港なのである。ねつりょう。    にくが刻まれるかおじゃなく 。   それを持たぬ者は居らず、それに生きぬがあれなし。詩とは     孤独の憂いを紛れはす 為にありや?   死は熱と共に      生きる裏   ねつ「として」だけでは生きれん実世じつよ