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江戸社会(2):武士の給料

一両とか二分という貨幣換算,200石から30俵2人扶持といった給料や役料,与力-同心といった江戸幕府の職制,庶民の生活実態など,わかっているようでわかっていないことの方が多い。中学・高校の歴史ではそこまで細かい内容の授業はしない。そのため漠然としたイメージばかりが先行しているように感じる。
しかし,部落史を理解するためには,その周辺・背景の基礎的な知識も必要である。ただ,江戸時代といっても270年間ある。現代とは時の流れの速さはちがうが,それでも270年である。貨幣換算を考えても物価変動などで必ずしも正確な数値はむずかしい。生活様式も変化している。当然,人々の意識,社会意識も変容している。歴史を考える場合,この時代の年数(年間)を前提にしなければ,ある程度の時代背景や内容を把握することはできない。実は,この曖昧さが部落史を固定的・一律的な理解に陥らせているように思う。

「30俵2人扶持」という武士の格式という「規定」が武家の困窮をまねいていることを理解できなければ,武士階級や幕府・藩の財政危機も理解できない。武士には収入に応じて決められた数の家来を召し抱えなければならない決まりがあったため,格式を守るために生活は決して楽ではなかった。

『大名行列を調べる』(古川清行監修著)によると,加賀藩の行列は4000人になり,その費用だけでも莫大なものになったそうである。加賀藩が糸魚川宿で使った費用の内訳が載っているが,現代に換算して3000万円以上になり,総額で約4億円かかったそうである。総収入の約30分の1にあたる。また,江戸屋敷も上屋敷・中屋敷・下屋敷とあり,広さも大名の石高に応じてちがいがあり,加賀藩では10万坪あったという。その維持費が年間に64億円かかったそうである。

山本博文『鬼平と出世』「あとがき」(講談社現代新書)より引用する。

旗本には,家禄というものがあり,加増がない限り,先祖代々同じ家禄であった。家禄は,領地(知行地)を与えられ,そこからの年貢を徴収する「知行」と,幕府の米蔵から米を支給される「蔵米」があり,前者は「石」,後者は「俵」で表される。
300石の知行取りなら,300石の生産力がある田畠を領地とし,四公六民ならば120石の米を徴収できる。300俵の蔵米取りは,幕領の年貢米が収められた浅草の米蔵から300俵の米が支給される。もちろん,1年間で300俵もの米を食べるわけではないから,消費用の米を除いて残りは換金する。この業務を行ってくれたのが札差である。
米俵1俵は,3斗8升から4斗ほどだから,300俵の米は120石になる。つまり,300石の知行取りと300俵の蔵米取りは,ほぼ同じ年収だった。そのため幕府は,300俵の蔵米取りが願えば,300石の領地を与えた。
ただし,領地から年貢を徴収するには,そのための家臣が必要だし,経費や運送費もかかる。そのため,100俵や200俵では知行取りになるメリットよりデメリットの方が大きい。
しかし,知行取りは,領地から人夫を徴発することもできるし,経済的に苦しい場合は領地の名主など裕福な農民から借金をすることもできた。何より,武士としては,蔵米取りよりは知行取りの方が格上だという意識があったから,300俵ぐらいの旗本になると,蔵米を知行に代えてもらう者が多かった。
17世紀中頃までは幕府にも余裕があり,出世すれば加増があったが,17世紀末になると出世しても加増はされなくなった。
旗本が役職を務めるのは,主君である将軍への奉公である。そのため,職務に要する必要経費も原則として本人の負担である。しかし,加増がなくなると,高い役職に上った旗本は職務への出費のため経済的に困窮する。そのため,八代将軍吉宗は,「足高の制」を定めて,幕府の各役職の基準知行高を定め,その役に在職している期間は本人の知行と基本知行高との差額を支給することにした。たとえば,800石の旗本が役高3000石の町奉行になれば,在職期間中は年々2200石分の知行を与えられるのである。

武士は家禄に応じて「家臣」(家来)を雇わなければならなかったし,小者や下女も雇う必要があった。例えば,300石であれば,家臣が2人,具足持ち・槍持ち・挟箱持ち・馬の口取り・草履取り・小荷駄など小者8人,馬一頭というような家禄・家格に応じた決まりがあった。実際,江戸では300石でも生活は苦しかったのである。

元来,武士は武功によって主君に仕え,それに対しる報酬として主君より禄を与えられていた。つまり,武功忠勤とその反対給付の禄によって家臣と主君は繋がっていたといえる。その為,禄が少ないと家臣と主君の間が分離した例も多くある。
しかし,江戸泰平時代に至ると,武家社会自体が変質,禄の性格も変わらざるを得なくなった。封建社会の常道として,武功によって与えられた禄は,後々まで主君に忠勤を義務づける為,一代限りではなく世襲として保証,家に与える形態となってきた。何か手柄があって加増されると,それがまた世襲となり,相続人が不適当であっても,失態して改易になるとか,あるいは主家が滅亡する以外は禄の給付が止められることはない。この禄のことを「家禄」という。家禄の大小は身分格式の上下を示し,封建的秩序を規定した。

さらに,戦場というものがなかったこの時代にあって,多数の家来を召し抱えているほど良いとされた戦時とは異なり,主君は必要なだけの武士をそれぞれの役に付かせ,役について者に対し在勤中の手当を家禄に追加して与えた。そのため,武士の力の発揮場所は戦場ではなく,与えられた役職で成績を上げることとなり,武士は役人的な存在に変形していった。また,多数の武士の中には,当然役に付けない者も随分出た。小藩であると,藩費のやりくりの上で,抱えの武士を減らすことも出来たが,徳川幕府直属の旗本・御家人となると,役に付けないからといって禄を禄を与えないわけにはいかない。有事に備える意味からも,無役の者に家禄は与えられた。このように,江戸時代の武士には「家禄」 ,「役職手当」という二つの収入があった。家禄のある武士ならば,仮に何か失態で御役御免となり,役職手当を打ち切られても,即明日からの収入に困ることにはならなかった。
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家禄
欲に言う何百石取り,何千石取りの武士というが,これはその数字が,そのまま武士の収入という訳ではない。何百石,何千石の米が取れる土地を拝領しているという意味で,その土地には農民がおり,彼らが作る米,穀物,野菜などの生産物の他,山林や沼地も含まれる。そしてその土地を拝領された武士は(領主),農民が領主に納める米を年貢米という。一般に農民と領主の取り分は,4公6民~5公5民の割合であった。4公6民を普通として,2百石取りの場合は,農民が120石,領主が80石で,江戸中期頃は,大略1石1両ほどであったから,およそ80両の収入であった。

役職手当
役職手当には役高,役料,役金,役扶持,合力米,四季施代などがある。

役高
一種の格式料。たとえば5百石の家禄の武士が抜擢されて,5千石の側衆になると,5千石の格式を維持する為に4千5百石を足してくれる。6千石の家禄の者が抜擢されれば,1石も足して貰えない。非役になると元の家禄に戻る。

役料・役金
その役の運営上かかる経費を支給。長崎奉行は1千石高の格式で,長崎奉行の運営費として4千4百2俵1斗の役料がつく。従って5百石の家禄の者がつくと,格式を維持するための5百石と運営費として4千4百2俵1斗が支給される。役金も役料と同じで,ただ支給されるのが金である。

役扶持
その役についている時の部下の扶持米を支給する。扶持米は主として下級武士に蔵米や現金の他に与えられた。一人扶持は,1人扶持は1人り部下を養うのに対する扶持支給で,一日当たり男は5合,女は3合換算で毎月支給される。いわば家族手当といったところであるが,もちろん家来の人数も加算される。禄高を表す時に「300俵5人扶持」という表現になる。

合力米
役料と同じだあるが,その意味は役に対する手当ではなく,役を務める上で足りない分を補うという意味から与えられる。たとえば,大坂鉄砲奉行は持高(家禄)勤めで合力米80石である。

四季施代
軽い身分の者で,役料・役金の代わりに,春夏秋冬に務める上で必要な仕事着を支給。この四季の着物代を見積もって24両2分としている。

以上のように何がしかの手当は付くが,役によっては持出しで務めなければならない場合もある。当然,持高で務める役は割合楽な立場が多く,役高を貰えるのは重要な役が多い。

『鬼平犯科帳』の長谷川平蔵の給料を算出してみる。

400石というと実際の取り分は160石。それに家族が男3人女3人で,家来(家来は大体400石取りの旗本の屋敷だと最低でも10人以上はいる。下女,門番など)もいれて,20人扶持とする。
男扶持(1日5合×360日×10人)=18石,女扶持(1日3合×360日×10人)=10.8石 
合計188.8石=472俵=26426kg
1石2.5俵として,米10kgが4000円とすると,年間手取り約(推定)10572800円。
だいたい月88万円の給料となる。賃金水準から考えると,もっと高額ではあるが,家族,家来が20人以上いて,20人分の食事・衣類や,それに家来の給料,他に馬の飼育費で,手元に残るのはわずかだったと思う。それに,探索費用や密偵に与える手当などの他に,贈答品,武器の手入れ,家の修理代などもあっただろう。さらに人足寄場の不足分など,生活は厳しかったと思う。しかも,彼は「美食家」(酒飲みだし,たばこも吸う)のようで,外食もよくしている。

物価と給与との相関関係や,江戸時代独自の雑費や雑収入なども含めた総体として生活実態を考えるべきと思う。
部落史研究の歴史背景として各時代の基礎知識は必要である。幕藩体制のしくみ,武士の職制や支配のシステムだけでなく,衣食住などの生活実態から庶民(百姓や町人)の暮らしに関する基礎事項は理解しておくべきと思う。ともすれば,現代の生活や価値基準をもとに,江戸時代を考えてしまいがちである。そのため,時に大きな勘違いをしてしまうことがある。現代と江戸時代の相違についての最低限の知識と認識は必要である。

以前,名古屋城に行ったとき,若い見学者が展示してあった城主の食事を見て「さすが殿様だね。鰻なんて贅沢だよね」と話していたが,鰻は庶民の食べ物であって高級食材ではなかった。『鬼平犯科帳』にも屋台の鰻売りが出てくる。

この程度の勘違いなら問題も少ないが,未だに貧農史観による貧困な農民像や,厳しい身分制度という認識から高圧的・理不尽な支配者としての武士像をイメージしている人も多い。同様に,穢多・非人に対しても従来の貧困と悲惨が固定化されたイメージを抱いているのではないかと思う。やはり,実態としての歴史像を史資料・史実に基づいて描く必要がある。
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『お江戸の武士の意外な生活事情』(中江克己)より引用してみる。

幕臣では御家人株の売買が行われたし,諸藩でも下級武士の株が売り買いされたが,その背景にあるのは武士の窮乏である。世間では消費経済が盛んになってきたのに,武士は昇級がないために家計が苦しく,つい借金を重ねる。それでも困窮から逃れることができず,やむなく武士身分を手放す武士が出てきたのだ。
つまり,経済的に困窮する御家人が財力をもつ町人の持参金をあてにし,養子縁組をするというのだが,実質的に持参金によって売買されるのと変わりない。
三十俵三人扶持の同心の株が百三十五両。一両十万円で単純換算すると,千三百五十万円だ。
御家人株を売買するさいの金額は,一般に「与力千両,御徒五百両,同心二百両」が相場。

それほどの大金を出して元は取れるのだろうかと疑問に思うが,役職によっては付け届けもあり,また出世して役高を得れば採算がとれたようである。
武士株を買って武士となっても,実質的な特権は名字帯刀と武士身分という社会的地位だけであったと思うのだが,それでも裕福な庶民は武士に憧れをもったのだろう。あらためて,江戸時代の身分制社会を生きる人々の価値観・人生観を考えさせられる。

中間クラスの武家奉公人の給金は二両二分が基本で,それに食事がついて,何とか食べていける程度で,年間一両か二両くらいであったから,町で雇われている木戸番や自身番の番人も同じくらいだったと思われる。

岡っ引きというのは「岡引」が促音化した言葉で,もともとは「傍にいて手引きする」という意味で,岡っ引きは町奉行に属する同心に私的に使われている小者にすぎないのである。町奉行から給金をもらうわけでもなく,同心が出す小遣い程度の金をもらっていただけだった。その額は,おおよそ月に五分から一両くらいだから,それだけでは十分に暮らせない。そこで商家をゆすったり付け届けを受け取ったりして生活していた。女房に小料理屋を営ませたりもしていた。
幕府は度々岡っ引きを使うことを禁止している。それに関係して,目明し,岡っ引き,手先などに呼称も変わっている。



部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。