ぼくの平成パンツ・ソックス・シューズ・ソングブック 21

2009年、荒井由実「12月の雨」

2008年の暮れ、飼っていた黒猫が調子を崩した。エサを食べなくなり、元気がない。水ばかり飲み、だんだん体もやせてきたようだ。うちで飼うようになったとき、獣医さんの推定で3歳くらいということだったので、いまや16歳。老猫の部類になっていたわけで、まさにその症状は加齢による腎臓不全を起こした猫に典型的なものだった。

獣医さんの診断では、この先どうしても自力でエサを食べないようであれば「強制給餌」か「毎日の点滴」しかない、という。ひとまず「給餌」を選択したが、まあいやがるのなんの。どこにそんな体力が残ってるの? とばかりに暴れる。それでも弱ってきたら点滴と入院を繰り返し、体調は一進一退、いや一進二退くらいの感覚で急速にわるくなっていった。

それでも、なんとか年は越せた。年明けには、SAKEROCKにとって初の九州ツアー(結果的に唯一の九州ツアーにもなった)が行われることになっていて、ぼくの地元の熊本でもライヴがあるということで、それに合わせて帰省を予定していた。ツマの実家のある長崎県諫早市にもあいさつに行くということで、ふたり揃って東京を離れる。猫は心配だったけど、さいわいにも直前には食欲もちょっとあり、病状も落ち着いているということで、獣医さんと相談して数日間入院ということにしてもらった。病院なら危険なときも点滴など対処してもらえるという安心感もあった。

SAKEROCK5人(このツアーは野村卓史くんも参加していた)の熊本公演は、めちゃめちゃに盛り上がった。2年前に、ぼくの本『20世紀グレーテスト・ヒッツ』で取材させてもらったかなぶんやさんにもライヴを見ていただき、打ち上げはぶんやさんに教えてもらった、馬刺しのおいしい地元の居酒屋さんで行われることになった(この夜の打ち上げの様子は『ぐうぜんのきろく 3』の名場面として記憶されているはず)。

その夜、日付が変わったころ、テレビではあたらしいアメリカ大統領に選出された初の黒人大統領バラク・オバマの就任式を放映していた。「時代は変わるのかねえ?」「変わるでしょう!」みたいな会話をしていたかな。

その後、宮崎での公演に向かった一行とは離れ、ぼくらは長崎へ。猫が心配なツマは翌日帰京し、ぼくはSAKEROCKの福岡公演へと分かれた。

その日のライヴも満員で盛り上がり、アンコールを迎えた。アンコール最初の「今の私」がちょうど終わったとき、携帯電話がぶるっと震えた。

ツマの実家を出て博多に向かう朝、獣医さんから連絡があり、猫の病状が深刻になりつつあるとは聞いていた。ツマは今夜には東京だし、ぼくも明日の朝早くには戻る。そろそろお別れなんだと覚悟をした朝だった。

ツマからのメールは短いもので、「さきほど亡くなったそうです」と書いてあった。そのとき、頭上を電車が音を立てて去っていくのが聴こえた。このライヴハウスは高架下に作られていたので、電車の音はするが、演奏している間なら気にならない。たまたま曲と曲の間に電車が通り過ぎただけ。なのに、それがお別れの合図のように思えた。ステージではラスト・ナンバー「生活」で、ハマケンと大地くんの対決がはじまった。

翌日、雪の降る博多から東京に戻ると、猫は眠るように猫ベッドにまるまっていた。黒猫で、眠る姿のまるさがかわいいので「クロマル」という名前だった。工夫のないシンプルな名前だったけど、いったんそれがぴったりとはまってしまったので、もう他の名前は思いつかなかった。さびしがりやで人見知りもしない、よく鳴く猫。この猫のおかげで引っ越しまでしたんだから。でも、もう猫は動かず、触れるとひんやりと冷たかった。僕が40代で悲しくて大泣きしたのは、この日が最初だった(思い出したけど、あとで、もう一回泣く)。

火葬を終え、看取ってくれた獣医さんにお礼をしに行った。10年以上面倒を見てくれた獣医さん。いかつい顔で厳しい口調だけど、うそは言わない人だった。

「不謹慎かもしれないけど、すぐ飼ったほうがいいよ」

「?」と当惑した顔をしていたぼくに、獣医さんはもう一度言った。「次の猫をすぐ飼ったほうがいいってこと。ペットロスとかもあるけど、また松永さんのとこで楽しく暮らせてよかったと思う猫が必ずいるはずだから。そのほうがクロちゃんもよろこぶよ」

それを聞いて、ぼくはまたうるっときてしまった(大泣きはしない)。そして、そのペット病院の表に貼り出されていた写真から一匹を推薦してくれた。生後3ヶ月のメス猫で、顔はかわいいのに、サビ猫なので人気がないらしい。さっそく写メを撮って、ツマに送った。その日のうちに、里親さんとの縁組は成立。翌日、我が家にあたらしい猫が来ることになった。

訪ねてみたら、高円寺に住んでいた里親さんは漫画家さんだった。じっさいに会ってみると、猫はまだ体長20センチほど。緊張してすっかり固まっていた。尻尾の毛先だけ新品の筆みたいに白かったのと、漫画家さんから譲っていただいたということで、名前は「ペンコ」にした。

ところが、家まで連れてきたら、そのペンコが行方不明になってしまう。物音も鳴き声もしない。「あー、相当おびえてたし、体も小さかったから、ちょっと外出するときにするっと外に逃げちゃったんじゃないか?」と、ぼくらは考えた。夜になっても猫は戻ってこず、「里親さんになんて謝ろう」と落ち込んだ。

その夜、枕元をすすすっとなにかが動く音がした。「いた!」。お腹が空いた猫が、エサを求めて、どこかから姿を表したのだ。のっそりと手を伸ばしたら、「ふにー」と鳴きながらどこかへ行ってしまった。捕獲ならず。でも、とりあえず家のなかにいたという事実に安心して、ふたりとも安心して眠りにはいった。

翌日、ペンコが逃げ込んだのはお風呂場で、浴槽の裏側のわずかな隙間に隠れていたことが判明した。そんなところに隠れることができたのは、ひとえに体が小さかったからだった。ペンコを捕まえたツマは、鈴の首輪をつけた。これでどこに隠れようと、鈴の音が居場所を教えてくれる。ぼくらには徐々に慣れてくれたらいい。それから10年経って、ペンコはツマにべったりで、ぼくのことは「エサやり係」としか見ていないけど。

2009年の話を書くと、あやうく猫のことだけになりそうだ。

猫といえば、友人のトム・アルドリーノは無類の猫好きで、家にも3匹の猫を飼っていた。なかでもトムの長年の友人がタフィというデブ猫。他の2匹がケンカしていたも、まったく動じないで家のなかをのっしのっしと歩く。親玉的存在なんだけど、他人(猫)には興味を示さない孤独のヒーロー。トムの家で(時差ボケで)早く目が覚めた朝は、たいていタフィを撫でて相手しながら、ぼんやりと時間を過ごしていた。やがてトムが起きてきて、家の外に遊びに来るリスたちにくるみをあげて、ベーグルで朝食。

トムとの買付は本当におもしろかったし、ためになったけど、小さな問題もいろいろあった。とくにNRBQでのツアーをやめてからのトムにはあんまり収入がなく、もともとオンボロだった車もどんどんくたびれ、ついにマフラー・チェックに引っかかってしまった(アメリカには、いわゆる車検はないが、マフラーが正常に機能しているかの検査は行われ、失格するとその車には乗れなくなる)。

車がなくてはどこにもいけないので、車を借りようとして、そのオンボロ車でなんとか近所のレンタカー会社に出かけた。しかし、トムはこのときクレジットカードも持っていなかった。ぼくが免許証を持ってないので、ぼくのカードで借りることは原則的にできないという。「そうだ、近所の自動車修理屋さんで車を貸してくれるかも!」とトムが閃いたように言うので行ってみたら、そこは自営の小さなガレージで、煤けた顔のおじさんが「よお、トム」とあいさつしてくれた。事情を話すと、「うん、そんなら乗ってけ。1日50ドルでいいよ」と、たぶん修理が済んで引き渡す前の車を貸してくれた。あれってたぶん、違法だったよね?

車のなかでは音楽の話をたくさんしたけど、トムはぼくの英会話の先生だったので、いろんな質問をした。「“Don't Tailgate”って、よく道路標識にあるけど、あれは何?」「ああ、相手の車のケツに近づきすぎるな、ってことだね」。「英語でゲスなやつのことをなんて言う?」「いろいろあるけど、ぼくが言うのは“prick”だな。XXXとかXXXみたいなやつ、ヒヒヒヒヒ」みたいな。

ある夜、トムと一緒にレコードを聴いていたら、だれかがドアをどんどんとノックした。もう真夜中近いのにと不審げにトムが見に行くと、「よー、トム!」と酔っ払った声がした。トムの遊び仲間のひとりが、べろんべろんに酔って帰る途中に立ち寄ったらしかった。彼はぼくを見て「日本の友だちか?」とトムに聞いた。「そうだよ」とトムが答えると、今度はぼくに「いつまでいる?」と聞いた。来週の水曜までと答えた。「ふうん。水曜までは友だちと一緒か。そのあとはまたひとりぼっちか。また猫だけか」そう言って、彼はトムを見た。「うるさいなあ、帰れ、酔っぱらい」と、トムは彼を追い出した。

車が出発する音がして、トムが家のなかにもどってきた。「彼も“prick”なの?」とぼくは聞いた。トムは首を横に振って「違う」と答えた。「友だちなんだ。ぼくを心配して寄ってくれたんだよ。いいやつだよ。“prick”なんかじゃない」その夜のこともなぜか忘れられない。

年末のSAKEROCK恒例となっていたキネマ倶楽部は12月12日、13日。終演後に、荒井由実の「12月の雨」が流れていた。じつはそれ、ぼくが作っていたクリスマス・ミックスで角張くんに渡したうちの1曲だったんだけど、それを自分でも忘れてて「最高の曲だ」と感じいっていた。

このころ、気まぐれにミックスCDを作っては、ブログでなぞなぞを出し、正解者にプレゼントするという遊びをときどきやっていた。そのプレゼントに、あるとき応募してくれた学生さんがいた。その人のやっているブログ(『幻燈日記帳』)を見に行ったら、とても太った若者だった。スカートというユニットをやっていると書いてある。ぼくがその青年、澤部渡くんと出会うのは、もうすこしあとの話だけど、すくなくともこの年、彼とぼくは交錯してはいたのだった。

じっさい、2009年にもいろいろなことはあったし、星野くんの初の著書(『そして生活はつづく』)も出た年でもあったけど、おおまかなムードとしては、まだ凪だった。2010年には、星野くんのソロ活動が本格的にはじまるし、いろんなことがぐぐっと動き出す。だけど、この年の瀬は、まだそんな予感もしないまま、2000年代の終わりを心地よく堪能していた。

2009年の1曲は「12月の雨」で。雪の降っていた1月の博多の悲しさを「12月の雨」でぬぐいさった1年だった。

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この連載が書籍化されます。2019年12月17日、晶文社より発売。


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