ぼくの平成パンツ・ソックス・シューズ・ソングブック 29

2017年、PACIFIC231「SORA NO KOTOZUTE」

2017年最初の取材は、大友良英さんとSachiko Mさんだった。去年の秋、突然降って湧いた大仕事。小泉今日子さんのデビュー35周年を飾るベスト盤『コイズミクロニクル』(CD3枚組の全シングルA面集)の初回限定版に付属する読本「コイズミシングル」の全曲について関係者の証言を集めていくというインタビューの一環だった。

大友さん、Sachiko Mさんのパートは、当然『あまちゃん』から生まれたヒット曲「潮騒のメモリー」(天野春子名義)。この項は2時間に及ぶ両人へのインタビューだけでなく、おふたりの熱意がすごくて、リライト&情報追加を重ねて、最終的にブックレットのなかでも最大のページ数に達した一曲となった。

1月には、「最後のレコード屋」の取材を兼ねて熊本に帰省していた。昼間、目的地を探しているうちに細い路地に迷い込んだ。すると、ある建物の一階に「ASA-CHANGのタブラボンゴ教室開催」と書いたフライヤーを発見した。日付は今日、しかも数十分後だった。ASA-CHANGさんにはサケロック オールスターズやASA-CHANG&ブルーハッツでも個人的にはお会いしていた。小泉さんのヘアメイクを一時期担当されていたなど関係性も深い。

ただ、今回のブックレットでの「丘を越えて」では、あくまで東京スカパラダイスオーケストラとの共演だったということで、当時のリーダーだったASA-CHANGさんに取材すべきか、現在のスカパラに話を聞くべきか、落としどころに迷っていたのだ。だが、こんなところでASA-CHANGさんに会うのがぐうぜんのなせるわざだろう。早速階段をあがって会場におじゃまし、ASA-CHANGさんに直談判した。その話が来たことより、なぜぼくがここにいるのかにびっくりしていたけど。

取材をすすめ、原稿も書いていくうちに、1月末を迎えた。川勝正幸さんのご命日だった。生前の川勝さんとは何度かおなじライヴやイベントなどでご一緒したくらいだったし、ご一緒といっても、ぼくはただの観客というパターンが大半だったと思うし、ぼくからしたら大先輩以上の存在。この仕事(コイズミシングル)で取材をしていくうちにも、何度「あー、これは川勝さんがやられていたはずのお仕事ですね」と言われたかわからない。

まあ。そりゃそうだよね、当時を知る方々からしたら、ぼくなんて突然現れた馬の骨ですもの。でも馬の骨には馬の骨なりの矜持があるし、誰かが変わりにやってくれるわけじゃない。仕事しているのは自分だ。結果としてよいものを残すことでしか取材を受けてくださったみなさんにも自分にも応えられないと感じていた。それに、川勝さんと小泉さんが時代を並走していた時期のシングルにまつわるエピソードのおもしろさにはいちいち舌を巻いた。だから、正直言って嫉妬もしたけど、やっぱり最終的に感じていた気持ちは感謝しかない。

それと、このブックレットの仕事をするにあたって、個人的に決めていたことがある。関係者の証言は直接取材とアンケートの二本立てで行ったが、直接取材にあたってはぼくのスケジュールの都合がわるければ別の人をインタビュアーに立ててもよいと言われた。だけど、それはしたくない。結局、会える人にはすべて直接お会いした。

もうひとつは、故人が登場するエピソードでも「故」とか「亡くなった」をいっさい使わないこと。その時点で生き生きと仕事をしていた人は、そのように扱われるべきだ。たぶん、おなじようなテーマの仕事が来たら、今後もこれは守るだろう。

『コイズミクロニクル』は無事、5月に発売された。小泉さんご本人をはじめ、関係者のみなさんにも喜んでもらえたし、オリコンのトップ10にも入るヒットも記録した。ひとつだけ、不満というほどのことではないけど、ベスト盤ということで音楽雑誌のレビューの対象としてほとんど見てもらえず、かといって読み物として独立しているわけじゃないのでブックレビューにも上がらなかったことは残念だった。

2016年に熱海に行ったことが、奇跡につながったと書いていた。9月のイベントが発展して、この年の2月25日、熱海のカフェ〈RoCA晴〉で行われたイベントで、VIDEOTAPEMUSICくんのライヴに坂本慎太郎さんが飛び入りし、映画『バンコクナイツ』からインスパイアされた坂本慎太郎+VIDEOTAPEMUSIC名義の「夢に見た町」でのライヴ共演が実現した(坂本さんはラップスチールでの登場)。この日が『バンコクナイツ』の封切り日であったという、これも誰が仕組んだわけでもないぐうぜんの作用だった。

7月23日には、さらにこの年2度目の奇跡が起きた。中野区大和町八幡神社の大盆踊り会は、近年ユニークな出演者がライヴやDJを披露して注目を浴びていたが、今年の2日目の出演者の大トリを務めた加藤義明さんのライヴに坂本さんが登場したのだ。今回は飛び入りではなく、全曲でギターを弾いての出演。櫓に組まれたステージに坂本さんがあがったときのガヤガヤ感はすごいものだったが、それを軽く受け流すようにひょうひょうと自分のブルースを歌う加藤さんも最高だった。それにしてもこの組み合わせで村八分の「草臥れて」が聴けるなんてね。盆踊りだったから、山口冨士夫さんもあの世から聴きに来てたかもしれない。

2011年にはじめて取材して以来、坂本さんとは取材のたびに「ライヴはやっぱりするつもりはないですか?」「そうですね」というやりとりを繰り返していたような気がする。しかし、2016年に出た『できれば愛を』を聴いたとき、これまでのソロ2作よりトリオ編成でも再現可能と思える曲が増えているし、これはもしかしたら? と感じていた。ぐうぜんとはいえソロ活動開始後最初の人前での演奏となった2013年のヨ・ラ・テンゴ飛び入りから、2016年2月の「チャネリング・ウィズ・ミスター・ビックフォード」、そしてこの年の2回と、坂本さんの生演奏はすべて目撃していたし、「ライヴはしない」とつれない答えをもらいながらも、なんとなく坂本さん自身の「そろそろ」的な手応えを感じていたところもあった。

それでも、「坂本さんが10月にケルンのフェスに出る」という報せには仰天した。ケルンはCANの地元だとは知っていたけど、北なのか南なのか、西なのか東なのかすらよくわかってなかった。なんとなく迷っていたときに、リズム&ペンシルのふたりが背中を押してくれ、行くことを決めた。

ちょうどケルン行きの話を決めたころ、2冊の本作りの話がスタートしていた。2017年は、カクバリズム15周年にあたっていて、10周年よりもさらに規模を拡大し、全国をツアー的に回りながら1ヶ月半のスパンでイベントが行われることが決まっていた。

10周年でもパンフを担当していたので、15周年でも当然それをやりたいと考え、角張くんとも打ち合わせをしていた。今回は全員アンケートはやめてスペシャル対談を何本かやろうとか、漫画は近藤聡乃さんに頼んでみようとか。9月下旬の広島から15周年イベントははじまるので、意外と時間がない。そこにもう一冊浮上してきたのが、雑誌『ロック画報』の一冊まるまるカクバリズムという号を作らないかという話だった。『ロック画報』は気になる特集のときには買っていたけど、ライターとして仕事をしたことはなかった。なのに、いきなり編集長的な立場で仕事をするのは妙な気分でもあった(後半から小田部仁くんにも編集に参加してもらったので、ぼくの肩書きは「監修」になった)。

『ロック画報』の中心は、カクバリズムに所属した全アーティストをそれぞれ紹介する項目を設けるというもの。そこに角張くんのロング・インタビュー、音やデザインなどでかかわってきた人たちのインタビューなどを挟み込んでいった。もっといろんな人に取材して「カクバリズム」を多角的に語ってもらうというヴァラエティもあっただろうが、イメージを拡散するのではなく、良い意味で近視眼的にやってみたかった。そのほうが流行や戦略でなく、純粋に「音楽が好き」という気持ちが動かしてきたヒストリーを表現できると思った。

とはいえ、何事もそう簡単にはうまくいかないし、ぼくの仕事はいつもギリギリもしくは締め切りに遅れたところからはじまるようなわるいところがある。このときも、坂本慎太郎さんのケルン公演に出かける前にすべてを入稿してしまう予定だったのが不可能となった。

版元のP-Vineの井上さんにケルンの駅前から、さも東京のどこかの駅の近くにいるかのように見せかけて「締め切りをもうすこし伸ばしたい」と電話したのは忘れられない。どんな理由をつけて説得したのかもう忘れてしまったけど、なんとか延期をとりつけた。その結果、カクバリズム15周年のファイナルだった新木場スタジオコーストでの販売は断念となったが、当日の全員集合写真を盛り込むことができた。普通ならアウトなところをぎりぎりでセーフにしていただいたのだ。

坂本さんが初のソロ・ライヴを行ったケルンの公演がいかにすばらしいものだったかは、『ミュージック・マガジン』にも書いた。その記事では、もう一ヶ所ライヴが予定されていたベルリンへ移動する電車が、時ならぬ台風の到来により運行中止になってしまったことは書いていたっけ?(大変だったけどなんとか無事だった、くらいは書いていた気がする)

この大変さはなかなかのものだった。もともと坂本さんたち一行より1時間遅れの電車で行く予定にしていたのだが、ホテルをチェックアウトして駅まで来てみたら、台風による線路上の倒木や停電などの影響で、ドイツ国内の電車は軒並み欠便/遅延との報せ。駅員さんに聞いてみてもはっきりとした答えが出ない。ケルンの街自体には風もそんなに吹いていなかったから、やきもきもつのった。途方に暮れてケルン名物の大聖堂を見上げていたら、背後から日本語で話しかけられた。「たぶん、しばらくどうにもならないと思います。もしかしたら今日はダメかも」。

彼女は日本からこのツアーを追いかけてきた女性で、たしかにケルンの会場で顔に見覚えがあった。日本ではシルクスクリーン・プリントのTシャツ制作の仕事をしているという彼女は、さきほど坂本さんたちにも事情を伝えたという。「坂本さんたちはいったんホテルに戻られました」。そうか、坂本さんたちはホテルに戻れたんだ。しかし、ぼくはもう宿もないし、どうにかして移動するしかない。彼女は飛行機に変更してベルリンに向かうという。出費は痛いが、ベターな選択ではある。

とりあえず情報をくれた彼女に礼をいい、駅舎内のカフェでしばらく時間をつぶした。1時間、2時間、3時間。あいかわらず情報に変化がない。途方に暮れていたところに一通のメール。坂本さんのマネージャーさんからで、一行も今日の移動はあきらめたとのこと。どうなるかわからないが、明日朝早い時間の移動に賭けるのだとい。

ベッドはないけど、寝袋で雑魚寝ならできるとのことで、ありがたいことにぼくもホテルに転がり込むことができた。一応、明日のライヴには間に合うつもりで体調の調整も必要だし、過酷な移動も予想されるということで、残念会的な盛り上がりもなし。神妙に夜を過ごした。

そして翌朝、電車が動き出したという情報を得て、一同ケルン中央駅に。しかし、ここからも簡単じゃない。みんなが抑えていた指定席はいったん無効。さらに、昨日移動できなかった人たちが今日の電車に集中するのは間違いなかった。

朝からごった返しているのではないかと思っていた駅は、意外と落ち着いている。電車に乗り込んでみたら、空席もそこそこある。しかし、ことはそう簡単でもない。昨日の指定席は無効でも、今日の指定席は有効なのだ。一駅ごとに乗客がどんどん増えていき、車内は東京の通勤電車みたいにカオス化。また電車も予期せぬ停車があったり、予定よりずっと遅れてのベルリン着となった。結局、この夜のライヴはなんとか無事に行われたものの、ベルリンに滞在できたのは十数時間。いつかあの街にちゃんと時間を費やしてリベンジしたいと思ってる。

坂本慎太郎ドイツ公演、カクバリズム15周年が終わって、次の仕事に着手した。夏の終わりにもらった一本の電話からはじまったのは、ブライアン・ウィルソンの自伝の翻訳という大役。これも「なぜおれに?」という大きな戸惑いもあったけれど、考えた結果受けることにした。本の翻訳としては、テリー・サザーン『レッド・ダート・マリファナ』以来13年ぶりだった(といっても、この仕事も時間がかかり、結果的に15年ぶりになってしまうわけだけど)。

ばたばたと過ごした2017年、またひとり、たいせつな人を亡くした。長く闘病を続けていた蓮実重臣さん。6月に亡くなった蓮実さんのお別れ会は、船上パーティー形式で行われた。蓮実さんの音楽履歴をたどる展示物としてSAKEROCK関連の記事もちゃんと飾ってあったのはうれしかった。蓮実さんがSAKEROCKの作品に参加したのは06年のアルバム『songs of instrumental』の「ドゥエルメ・ネグリート」一曲だけなんだけど、当時はよくライヴを見に来てくれていたし、率直な意見もくれていた。なにより、音楽で見果てぬ世界を夢見るのは自由だってことを鼓舞してもらったという意味での影響は大きかったはず。いつだったか何度目かのお見舞いをしたときも、蓮実さんはベッドの脇にあったスマホで、東欧の知らない音楽を見つけて興奮していた。

ハマケンともこのお別れ会でひさびさに会った。ハマケンは蓮実さんとかつてガイガーというデュオをやっていたのだ。音源が残ってないのが残念。ハマケン率いる在日ファンクがカクバリズムに合流するという報せを聞いたのも、このころだった気がする。このお別れ会には来られなかったけど、馨くんからも蓮実さんのユニットPACIFIC 231の名曲「SORA NO KOTOZUTE」をHei Tanakaでカヴァーしたいのだけど、というメールをもらったのもおなじころだった。

解散から2年が経っていたけど、この年、もう一度SAKEROCKのことを考える機会が訪れた。まあ、それは『ロック画報』のカクバリズム特集を引き受けた時点で、自ら招いたことでもあったんだけど。解散したバンドなのでインタビューはもちろんなし。SAKEROCKの項目はすべてぼくが書くことになった。

過去に彼らについて書いてきた文章を思い返せば、さすがにもう書くことも残ってないかもと思っていたけど、いざ着手したら不思議なくらい筆が進んだ。もう彼らについてこうやってページが割かれることもあんまりないのかもと考えることはさびしくもあったけど、だったらなおさら今後SAKEROCKを知らない世代にとって、彼らがどんな存在だったのかわかるようにしたいと心がけた。

そのとき、SAKEROCKの総論として書いた文章がある。一気に書き上げたので、よしあしは自分ではわからないけど、いろんな人に声をかけてもらった一文だった。その最後をぼくはこう結んでいた。

〜15年6月2日、両国国技館で行われた解散コンサートには、カクバリズム所属のアーティストやゆかりの深いミュージシャン、スタッフに広く声がかけられ、館内中央のステージをみんなが見守るように見ていた光景を思い出す。カクバリズムの戦友と言ってもいい世代もいれば、cero以降に現れた後輩たちもいた。「日常をエキゾ化させる」という表現がceroやVIDEOTAPEMUSICに対して使われるとき、その道案内がSAKEROCKによってなされていたことを思う。片想いのライヴを泣き笑いしながら見ていると、ときどき「MUDAの中にすべてがある。」というキャッチコピーを思い出す。満員の観客でぶち上がるライヴの隅っこで、ひとりで来て、自分の楽しみ方で音楽を聴き、踊っている人を見つけると、そこにもSAKEROCKを今も発見する。〜『ロック画報』28号、カクバリズム特集より

この年の一曲は、PACIFIC231「SORA NO KOTOZUTE」にする。解散したSAKEROCKについて書いていたとき、ぼくもなんらかの空からのことづてを感じて書いたような気がしていたからだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

この連載が書籍化されます。2019年12月17日、晶文社より発売。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?